教書に学ぶ教祖神の親心 一
教主 黒住宗道

 令和二年(二〇二〇)七月開講の黒住教学院通信講座教書課程が、十二年ぶりに御文一号から再出発したのを機に、私は教書課程を主宰する教学局長(当時は学院長)と教学局員らと共に「修錬会」という講師のための勉強会を始めました。奇しくも教祖神大還暦の庚子年であり、世の中は“コロナ元年”という、集中して道を学ぶ(修錬する)のに相応しい神機でした。

 講師としての今後の講義に、さらには十二年後の御文一号からの再出発に際しての指導書に加筆されることを意識しながら、毎月一回、御文と御歌を一題ずつ深く学んで感想を述べ合うことで、一人静かに拝読する学びとは異なる新たな気づきや発見が得られます。

 とりわけ、当時毎月二日と十六日に出る岡山‐江戸間の飛脚便に間に合わせるように御書簡を認められる教祖神の、主に石尾乾介高弟とのやりとりから伝わってくる親心には、あらためて熱く胸打たれます。今後、「教書に学ぶ教祖神の親心」と題して、教書を学んでみたくなるような「道ごころ」を折に触れて発表してまいります。

 ご存じの方は多いと思いますが、参勤交代による殿様の御供をして初めて江戸詰めを経験されている石尾高弟へのお手紙から教書の御文は始まります。

 文政四年(一八二一)二月二十七日に岡山を出立して、翌三月十四日に着府された高弟からの第一報に対するお返事が御文一号です。出発時に体調を崩されていたと拝察される夫人の快癒を知った高弟の安堵が想像できますが、最初の御教えは「本(心)をすます」ことの一大事でした。その後、御文二号は六月二日付で、依頼を受けて染筆された御神号(御詫宣)に同封され、「常祓いをお忘れなきよう」、「寝ても覚めても心の祓い一筋に」と繰り返して御教えになっています。

 その後、書簡の往復があったのかもしれませんが、十一月二日付の御文三号からは、腫物に難儀をされる高弟への親心がヒシヒシと伝わってきます。御祈念を同封され、次の十六日の便で腫物に効果があるといわれる「御灰」を届ける旨を伝えて、何とか快癒本復のおかげを受けるように尽力される「祈れ、薬れ」の尊き御手本として学ばせていただけます。そうした教祖神のお心遣いが人々に知られるようになり、「少し(道が)広がり過ぎのように存じ」とか「有り難つらき次第」と戸惑っておられるご様子から拝察する、謙虚で穏やかなお人柄にも胸打たれます。

 御文四号と五号は、未だ腫物が癒えない高弟への深い慈愛の親心です。御文三号に対する返信と思われる十一月十六日付の高弟からのお手紙が教祖神の許に届いたのが同月二十七日で、翌朝の冬至の御日拝への参拝者約五十人と共に御祈念をつとめたこと、高弟の父君をはじめ皆が手厚い信心に励んでいること等を記して、江戸と岡山は遠く離れていても御道は一本の木のごとく一体であることを力強く説かれ、心丈夫に信じて任すようご指導なさっています。翌日の二日の便で投函するために「十二月朔日調」と結ばれた御文四号に、今村宮でのご神務を終えて帰宅なさった後に加筆されたのが御文五号です。「どれほどの病気であろうと、臆病や疑いを離れて本来の清らかなまことの心になって大御神様に任せ切れば、後は何につけても楽しみばかり」、「悪心(臆病や疑いや我)なきを頼みに常に楽しみのみの心で…」と、疑いや弱気を離れて信じて任せ切ることを、わざわざ「追伸」として投函期限ぎりぎりまで懇々と諭されるお言葉に胸が熱くなります。

 まだ治らない腫物に難儀する高弟へのお見舞いと、現在も大教殿で毎月斎行される十五日の日神祭と翌十六日の御日待(お日待ち祭)への参拝者と御祈念をつとめられること、さらに高弟の父君と夫人が熱心に信仰されていること等をお伝えになって激励されるとともに、先の御文四号と五号のお諭しに対する心を和歌に詠んで返信した高弟に、返歌をもってお諭しされたのが十二月十五日付の御文六号です。月に二回の飛脚便を待ちかねるように御道の心を求める高弟に対して直ちにお応えになる教祖神。ひたすら御教えを求めた石尾高弟のおかげで、いま私たちも教祖神から直々のお導きをいただけることをあらためて尊く有り難く思います。

 毎回、すべてのお手紙で岡山の石尾家の様子、お道の盛り上がり、そしてご自身の近況を丁寧なお言葉で報告なさる教祖神のお人柄に、人としての基本的な在り様を学ばせていただくとともに足らずを省みるばかりですが、初めて江戸で新年を迎えられた高弟からの賀状への返信として正月のご多用の中に認められた御書簡が、整理の都合上の“欠番”を挟んで、文政五年(一八二二)正月十八日付の御文九号です。

 この年は、数年に一度の正月と二月の間に閏月が設けられた年でした。御文一〇号は閏正月十二日付で、冒頭の「先月(正月)十六日当月(閏正月)朔日出之御書」の二通へのお返事です。平癒しつつあるものの「未だ腫物さっぱりなされず候由」とのことで、お見舞いの文言は拝見できますが、日ならずしての完治を確信しておられるご様子から、高弟がすでに精神的には病を克服されたことが拝察できます。さらに、この御文の中で詠まれたのが、名高い「有る無きの中にすむべき無き物をなきと思うな無き心にて」(御歌六二号)でした。

 そして、いよいよ「殊に御腫物もさっぱりと御全快なされられ」と完治のご祝辞を述べられた二月二十五日付の御書簡が御文一一号です。 「いよいよもって天地はいきもの(活物)に候えば、疑いを離れ修行つかまつり候えば、有り難き事は天地にみち候えば、何ほどの事ござ候とも、この無の中より、君も我もあらわれ候えば、病くらいの物、その場にてなおり候とも、これらをまた不思議に思うは、重重まよいなり」と、まさに「活物」がズシンズシンと伝わってくるような御文をそのまま紹介いたします。

 数カ月間難儀をされた腫物を克服するとともに、まさに「病を道の入り口」として御道の奥に進まれた高弟宛ての四月二十二日付の御書簡が御文一二号で、次々と顕れる霊験の妙をお知らせになり、そして「はばかりながら余り無が過ぎはつかまつらずや」と高き次元での高弟の目の付け所を戒められた御文一三号、さらに、いよいよ一年半の江戸詰めを終えて帰藩される直前に「くわしくは御尊顔にて申し述ぶべく候」と結ばれたのが御文一四号です。この最後の御文で、「かの信心は御心に年の寄りなされぬよう」と「いつまでも子供の心を御はなれなされず」とお諭しになった教祖神のお言葉は、高弟の帰りをワクワクして心待ちになっている純心な子供の心の現れそのものと、ほのぼのした思いで拝読させていただくことです。

 いかがでしたか? 石尾乾介高弟が最初の参勤交代のお役目を果たされた間のお手紙のやりとり。とりわけ、腫物に難儀をして弱気になる高弟を励まし諭し誠を尽くして導かれる教祖神の親心は、月に二回しか飛脚便のない条件下で書かれたお手紙であることを意識しながら、さらには「高弟からの返信は、どのようなものだったのだろうか…」と想像しながら、通しで拝読することにより、一層有り難く身近に感じさせていただけます。

 実は、私が所長を拝命していた東京大教会所の責任総代であった故山田敏雄氏(天心衆)に、「教団として教書の公式現代語訳を発刊することは、細部の訳し方の諸説を考慮すると難しいが、個人による監訳を教団(学院)として公認することは可能なので、ぜひ貴殿の愛教祖神の心を全て注ぎ込んで、積年の懸案事項であった教書の現代語訳に取り組んでほしい」と、私から頼んで数年がかりで完成してもらったのが、立教二百年を記念して出版された『黒住教教書現代語訳』です。この見事な現代語訳からも、教祖神の親心は十分に伝わってきます。 

 いずれ本稿で紹介する次の御文からの「教祖神の親心」も楽しみにしていただきたいですが、ぜひ貴方ご自身で教書(現代語訳)を開いて、「私の教祖神」をしっかり感じてお心にお鎮まりいただき、尊いおかげをお受けください。