ご鎮座百六十年を迎えた神楽岡・宗忠神社
教主 黒住宗道

 今から百六十年前の文久二年(一八六二)二月二十五日(旧暦)、現在の暦に換算すると三月二十五日という桜の季節を迎えた頃に、京都神楽岡・宗忠神社はご鎮座なりました。明治維新まで五年という幕末の動乱期に、時の帝・孝明天皇の仰せ出された唯一の勅願所として鎮護国家の祈りが連日捧げられ、関白九條尚忠公による「宗忠大明神」の大幅の御神号や、最後の関白であり若き明治天皇の摂政でもあった二條齊敬公染筆の「文久二年夏のころ宗忠神の遺教の歌を拝写して神社に納めける」と書かれた真筆、さらに後の明治の元勲三條實美公による「神文之事」(宗忠大明神への入信の誓い文)等が奉納されました。この三名は、いずれも孝明天皇に仕えた公家方の最重要人物として歴史上名高い方々ですが、迫り来る西洋の列強を前にして国を二分すべきではないと公武合体を唱えて主導した九條公と二條公に対して、長州や土佐の若き勤皇・尊皇の志士たちの精神的な後ろ盾として強硬な攘夷論を主張した三條公という、この時代に関心のある人なら誰もが目を疑うような主義主張の全く相反する方々が、揃って宗忠大明神への信仰を明らかにしているのです。

 その激変期の中でも、最大のターニングポイント(転換点)の一つとして、維新前夜を語る上で欠かせないのが「禁門の変(蛤御門の変)」です。当時を題材にした映画やドラマや小説を一層楽しめるという“おまけ”がもれなく付いてきますから、受験生時代の私の古い参考書を頼りに概略を辿ってみたいと思います。

 「禁門の変」は、元治元年(一八六四)七月十九日(旧暦)、京都の御所付近で長州藩と幕府側が武力衝突した事件で、御所の門を意味する禁門付近で戦闘が行われたことから「禁門の変」、とりわけ蛤御門付近が最大の激戦地となったことから「蛤御門の変」とも呼ばれます。尊皇攘夷派の中心的な立場として、三條實美公らを通じて朝廷にも強い影響力を持つようになっていた長州藩に対して、公武合体派の薩摩藩、会津藩が手を結び、京都から長州勢の一掃を画策したクーデターが文久三年(一八六三)の「八月十八日の政変」でした。これにより長州藩は勢力を失い、三條實美公ら七卿の急進派公家が都落ちしました。しかし、一部の長州藩士は京都に潜伏し、勢力回復のため他藩の尊皇攘夷派と会合を繰り返します。その情報を探知した新撰組によって粛清された最大の事件が池田屋事件で、池田屋に集結していた長州藩士や他藩の攘夷派志士の多くが命を落としました。事件後、長州藩では、藩主の冤罪を孝明天皇に訴えるためと称して兵を集めて京都に迫るものの要求は受け入れられず、長州藩の急進派が武力で公武合体派を排除するために決起したのが「禁門の変」でした。

 御所の蛤御門付近で長州藩と会津・桑名藩が衝突して激しい戦闘となり、一時中立売御門では御所内に進入するほどの勢いを見せたものの、薩摩藩が幕府側の援軍として駆け付けると形勢が逆転し、長州勢は破れました。この争いにより、久坂玄瑞ら長州の尊皇攘夷派のほとんどが命を落とし、御所に向けて発砲したことで長州藩は朝敵となり、藩主の追討令が出され、幕府は長州征伐軍を送ることになります。

 勤皇・尊皇派にも関わらず、長州の志士たちが御所に向けて発砲した理由は、玉体(天皇の御身)の安全のために御所を離れていただくべく講じた超手荒な策であったと理解できますが、前例に基づいた比叡山への御動座という選択肢もありながら孝明天皇が微動だにされなかった理由は、専門家の間でも不明・不問のままのようです。「歴史に『もしも』は禁句だが、あの時、もしも天皇が御所を離れていたら京都は灰塵と帰していたであろう」と話された歴史学者の柴田實京都大学教授(当時)の講義を聞いていたのが、学生時代の六代様でした。結果的に、薩摩の精鋭部隊に敗れ、朝敵の汚名まで受けることになる長州にとって、孝明天皇の御動座がなかったことは致命的な想定外の出来事だったようです。

 御神裁(神籤)という“神意”が、「天皇の行動を左右した」ことの学術的な証になるとは思いませんが、「大明神の御神意は如何に?」との御下問を受けて神楽岡に早馬で駆け上がった二條家の櫛田左近将監に対して、熱禱の中に赤木忠春高弟が発した「主上、御動座ご無用!」との奉答が「孝明天皇をして御所に踏み留まらせた」ことが、未だ不明・不問のままの史実に対する解答として認識されることを期待するばかりです。

 いずれにしても、私たち宗忠神(大明神)を信じて仰ぐ黒住教道づれは、本稿に記した点を神楽岡・宗忠神社の十年に一度の節目に際して感動も新たに振り返り、五カ月後の十月十六日の記念祝祭への参拝を心待ちにしていただきたいと念願するものです。

 最後に、ご年輩の方にはお孫さんや曾孫さんに語って一緒にお参りしてもらいたいので敢えて紹介しておきますが、昨年の大河ドラマの「青天を衝け」で、若き志士であった渋沢栄一青年が大きな転機を迎えた前半のクライマックスも、また、同様に昨年話題になった映画「るろうに剣心・最終章」で、舞台が京の都から隠とんの地へと転換した切っ掛けの大事件も、いずれも「禁門の変」でした。

 コロナ禍が収束して、老若男女のお道づれの皆様と共に神楽岡・宗忠神社でお祓いを上げられますように・・・。

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