奉祈 世界大和・万民和楽
―ウクライナ戦禍の速やかなる終結を希って―
教主 黒住宗道

 「国の内外を別たず大和しき世界の建設に弥益々大御徳を被らしめ給い【別きてもウクライナ戦禍の速やかなる終結を得しめ給い】守り恵み幸わえ給えと畏み畏み祈り奉らくと白す」

 去る二月二十四日のロシアによるウクライナ侵攻以来、私は日拝祝詞の最終節に【別きてもウクライナ戦禍の速やかなる終結を得しめ給い】の文言を心中で加えて、祈り続けています。

 「まさか、そこまで…」と驚愕と戦慄に震えながら、時々刻々伝えられる情報の洪水の中で、戦争の恐怖と悲劇に向き合わざるを得ない日々です。ロシア大統領からどのような正当性が語られようと「言語道断」。核兵器使用まで公言するなど以ての外。決して許される行為ではなく、ロシア軍侵略の速やかなる停止・中止を切に祈るばかりです。

 冒頭に示しましたように、私たちが毎朝奏上する日拝祝詞の締めくくりは「大和しき世界の建設」で、本稿の冠として掲げた「奉祈 世界大和・万民和楽」は、いよいよ欽行の日も近い宗忠神社御神幸の主たる祈りです。私たちは、世界が大いなる和の中にあって、全ての人々が和やかに楽しく生きられること、すなわち「まることの世界」の実現を、日々祈り続けています。

 私は、「平和」ではなく「大和」という言葉が用いられてきた深意を大切にしたいと思っています。「大らかに和やかに、たとえ平らかでなくても和せる」という、異物をも受け入れて共存する「大和」には〝排除の論理〟はありません。その分、混沌とした曖昧さや、すっきりしない歯切れの悪さや違和感を如何に克服して調和を図るかが重要で、言葉遊びではなく真剣に「大和には対話が欠かせない」と確信しています。

 少し理屈を申した理由は、ロシア大統領への理解を示すつもりは毛頭ありませんが、ウクライナの実状の複雑混迷さ、東西冷戦後の旧東欧諸国、とりわけ旧ソ連が抱えてきた矛盾や混乱の現実を知らずに、ただ「戦争反対!」だけを訴えても真の解決にはならないと考えるからです。何も私は、「(誰もが)詳細を理解すべし」と主張しているのではありません。素人がちょっと検索したくらいでは到底分からない、思想、民族・宗教、積年の感情の縺れ等の「一筋縄ではいかない」様々な要素が絡み合っているという現実を知って途方に暮れながらも、地域紛争レベルを超えた軍事侵略という今の「最悪事態」に至るまでに、必ず「対話による解決」の余地はあったはず…と思うが故の、口惜しさともいうべき心情に心の整理がつかないのです。

 既に第二次大戦以降最多という、祖国を追われて避難している無辜の人々の気の毒な姿に胸が痛みます。また、武器を手に応戦するウクライナの人々に対して、「戦うなかれ」とはとても言えません。ただ、ウクライナ兵と称する人々の中に好戦的な過激ナショナリストが多数含まれていることを、世界の多くの人々は知りません。非難されるべきは、明らかにロシア大統領ですが、世界中が彼を唯一罰せられるべき個人として追い込めば追い込むほど「核のボタン」が近づいているようで、私は不安で心配で仕方がないのです。

 この度の惨事が、個人レベルの積年の恨みと怒りに多少なりとも起因するのであれば、私たちが日々の心得としていただく教えの基本「御七カ条」の「腹を立て物を苦にする事 恐るべし恐るべし」の重大さをあらためて実感します。御年二十歳の「立志」に際して宗忠様が御自らへの訓誡として示した「五カ条」を、日々真摯に実践修行され続けて四半世紀後、既に天命直授といういわゆる悟りの境地に立たれて十年が経過してからの千日間の「悟後の修行」の結果、新たに加えられた二カ条の一つで、敢えて二番目に掲示されたのが「腹を立て物を苦にする事」への誡めです。

 天照大御神の「わけみたま(ご分心)」のご座所である我が心を痛め傷め損なうことがどれほど罪深いことであるかを、教祖宗忠神は繰り返して説かれました。有名な御逸話だけでも「茶碗と真綿」、「論争を避けて相手の心をお生かしになる」、「横領の冤罪を甘んじてお受けになる」、「生き枝枯れ枝についてのみ教え」、「孫と角力をとる」、「堪忍について」等々、現代人の感覚だと理不尽とさえ思われるような出来事にも、大らかに柔らかく温かく包み込むように丸く応じることを、宗忠神は御身を以って教え示して下さっています。「腹立てな物を苦にすな悪もすな天の恵で福徳をます」という御神詠の書かれた紙片を部屋中に貼って、残った一枚を返そうとした人への「あなたの臍の裏に貼っておきなさい」とのお諭しを我が肝に銘じて、コロナ禍とウクライナ戦禍に乱れがちなお互いの心を、まさに心して養い安んじさせなくてはなりません。

 度々映し出されるウクライナおよび周辺国の地図を見ながら、今から三十五年前の一九八七年七月に、当時留学先のロンドンから青年宗教者の一人として東欧諸国を巡礼した「平和バス旅行」での一コマを思い出しています。ソ連(当時)の旧市街ミンスク(現ベラルーシの首都)での地元の若者たちとの対話です。拙著『ロンドンだより』(日新社刊)で紹介していますが、かなり刺激的な意見交換の場になったのですが、彼らの訴える「西欧の連中と話をすると、まず頭にくるのが、われわれが不幸せな社会に住んでいる人間だと決めつけて話しかけてくること…」との指摘には冷水を浴びせられた思いでした。相互理解の最初のステップに気付かされたことを思い出しながら、溢れる情報を一方的な思い込みで鵜呑みにすることのないように、常に心掛けなければならないと自らを顧みています。


天照大御神様、ご一体の教祖宗忠の神様!
どうか一日も早く一刻も速く、ウクライナの戦禍・惨劇が終結しますように、お導き下さい。      拍手