岡山経済同友会による被災地派遣大学生ボランティア「記録・提言集」寄稿文
被災地で学生たちと学んだこと
教主 黒住宗道

 かつて岡山経済同友会は、東日本大震災と熊本地震の被災地に大学生ボランティア(団長を教主様がお務めされた)を派遣しました。同会ではこの度、このことを振り返る「証言・記録集」を発行することになり、教主様も一文を寄せられました。今号は、そのご文章を紹介いたします。(編集部)

 東日本大震災が発生した平成二十三年(二〇一一)から二十七年(一五)まで毎年八月に計五回、そして熊本地震発生から二週間後の平成二十八年(一六)五月に、岡山経済同友会が大学コンソーシアム岡山とAMDAの協力を得て被災地に六年間にわたって派遣した大学生ボランティア団の団長として、私はほぼ全日程を同行参加しました。

 被災地から遠く離れた岡山の大学生に、東日本大震災という大惨事を「他人事にさせてはならない…」という経済界の大人たちの〝親心〟が発端になり、県内の大学の協働体であるコンソーシアムがボランティアを募り、震災直後から被災地で救援活動を展開していたAMDAが現地でのプログラムを計画し、同友会が資金援助と同行世話役を担当したプロジェクトでした。

 大震災発生から半年も経たない初回は、岡山を出発して早々に事故渋滞に巻き込まれ、西宮名塩SA(兵庫県)まで五時間を要した〝試練〟のスタートでした。遥か千二百㎞先の大槌町(岩手県)まで、二十時間のバス移動を覚悟して挑んだ最初の食事休憩が、日没後の西宮市であった学生たちの心中を想像してみて下さい…。結果的に、コース変更等の策を講じて目的地到着が二時間遅れで済んだことは担当スタッフの努力の賜物でしたが、当初予定していた午前中の活動はキャンセルせざるを得ませんでした。

 そして、やっとの思いでいよいよ到着した被災地での作業は、被災した人々の傷んだ心を癒やしたいと願う地元の人の求めで、河原で石を拾う〝菜の花プロジェクト〟でした。一行は事前学習会で「地元の人の声を聞き、被災者の心に寄り添って行動すること」を徹底して学んでいましたから、依頼された作業を黙々と行って二時間足らずでミッション・コンプリート(任務完了)。大槌町から二時間離れた花巻市の宿に移動するため、初日の活動は早々に終了となりました。初年度から参加するほど気合の入った学生諸君が、やむを得ない事情とは申せ、初日の実働内容に物足りなさを感じたのは当然でした。彼らの熱意が通じたのでしょう、翌日は犠牲者多数のため瓦礫や汚泥の撤去が大幅に遅れていた大槌湾近くの安渡地区の作業がボランティア・センターから依頼され、現役大学生ならではの若さ全開の献身奉仕の二日目となりました。

 この安渡地区の〝氏神さま〟が、翌年の一行の宿泊先であり研修会場となった大槌稲荷神社でした。宗教施設が避難所として機能した良き実例であったこの神社を拠点にして、二年目のボランティア団は活動を展開しました。

 二十時間の〝夜走り〟を物ともせず、一行は作業現場である大槌中学校に直行し、年内に解体される校舎の片づけを行いました。〝大槌っ子〟の思い出そのものである町内唯一の中学校は、一年半前に被災したまま時間が止まっていました。思い出の品々の仮設校舎への搬出作業と、最後のお別れ会のための大掃除を終日行いました。夕食後の研修は、翌日に行う被災児童たちとのバーベキュー大会をいかに盛り上げるかという班別ワークショップでした。仮設住宅での生活は薄壁一枚の隣人への気遣いの毎日で、仮設校舎に通う食べ盛りの中学生たちに「お腹いっぱい焼肉をご馳走して元気づけよう…!」が二日目のミッションでした。ただ、一年前の被災の記憶も生々しい子供たちとどう向き合うか、自分の言動に最大の配慮をしながらの一日だったと思います。

 三年目は、「東北地方太平洋沖地震」の震源地に最も近い石巻市雄勝町(宮城県)での作業と地元の人々との交流、そして被災した海岸沿いを視察しながら北上して大槌町に入り、山村地域で行った作業と研修が活動内容でした。

 大槌町で聞いた「目の前の海がなくなって、海底がむき出しになっていた」、「真っ黒い大きな波の壁が押し寄せて来た」という迫り来る津波の恐ろしさとは異なる、震源地近くの雄勝町桑浜地区での津波被害は「海がいきなり盛り上がってきて、みるみる内に水位が屋根の上までになった」という、話を聞いて初めて知る恐ろしさでした。旧桑浜小学校をコミュニティセンターとして活用できるように土砂の撤去と草取りを集中して行った後、南三陸町、気仙沼、陸前高田、大船渡等を通って釜石から大槌町に入った移動が貴重な車内研修でした。三年目の大槌町では、被災しなかった山村地域を訪れました。震災直後、海岸地域の人々のために備蓄食材を中心とした物資提供を惜しまなかった山村地域の人々は被災者扱いされず、支援・救済の対象にはなりませんでした。知られざる震災の苦しみを学んだことでした。

 四年目も、初日は雄勝町で地元の憩いの場であった波板海水浴場の復旧のための整備と草取りを行い、夜は地元の人々との夕食交流会、翌日も早朝から草取りに汗を流した後に、被災地視察を行いながら北上して大槌町へ移動。地元の人々に、岡山からの毎年の来訪をことのほか喜んでいただき、吉里吉里海岸の清掃作業という活動もしっかり行いましたが、手作りの郷土料理をふるまってもらった昼食交流会が有り難くも嬉しい思い出です。また、この年の車中での〝参加動機(往路)&体験感想(復路)発表会〟(何せ、時間はたっぷりありましたから…)で実感したのが、四年目という時間の経過でした。「東日本大震災が起こった時は、まだ中学生だったからボランティアとか考えられなかったけど、大学生になったので、やっと参加できた」という一年生からの声が印象的でした。

 最終年は久々に大槌町に直行し、初日は隣町である山田町と二か所の漁港での養殖のカキやホタテ貝やホヤの仕分けがミッションでした。いずれも「活動を再開した地元漁師を手伝う」という名目でしたが、仕分けしたホヤが夕食の食卓に上がっていたことに明らかなように、実際は学生たちに貴重な体験をさせていただく研修の場でした。二日目は早朝から浪板海岸の清掃を昼まで行いましたが、その時に拾得した車のナンバープレートが、未だ発見されていない犠牲者の自家用車の物であることが後日判明し、ご遺族から御礼の連絡があったという出来事がありました。その後、東北各地で人々の心を癒やし、復興の原動力になった郷土伝統の祭りが地元で行われるということで、江戸時代中期から伝わる獅子舞いや虎舞いを見学して交流を行いました。研修が中心となったプログラムからも、そろそろ復興支援ボランティアの仕舞い時を実感した五年目でした。

 終了したはずの学生ボランティア団を急きょ編成して実施したのが、平成二十八年の熊本地震に際しての活動でした。一行が被災地である熊本県益城町に入ったのは震災から二週間後の五月三日でした。私は、専門家から教えられて知るとともに実体験もあった「二週間後からの難しさ」を車内で学生たちに伝え、言動に細心の注意を払って作業しようと呼びかけました。

 「被災直後の非常事態(非日常)による緊張・興奮期から、過酷な現実を受け入れざるを得ない実感と心身の疲労困ぱい(日常化)による沈滞・消沈期への移行が二週間を目安に始まる」という、情味のない研究データに基づく指摘ですが、実際にボランティア活動を行った広安小学校で被災者からの理解を得にくいという現実を一行は経験しました。校舎の廊下で掃除機をかけていた学生は「うるさい!」と怒鳴られ、共同喫煙所で休憩するスタッフは「ボランティアが占拠して煙草も吸えない」と文句を言われました。いずれも悲嘆と苛立ちによる〝二週間現象〟でした。もちろん、「仮設トイレの清掃中に、わざわざ部屋から出て来てお礼を言ってくれたのが嬉しかった」という報告のような、被災者との心温まる交流もありました。

 一年に一度の現地での二泊三日の作業と車中往復二泊というボランティア活動が、被害甚大な被災地の復旧に貢献した〝仕事量〟は微々たるものですが、はるばる岡山から訪問し続けた事実は、私たちの想像以上に被災地の方々に喜ばれ感激され感謝されました。それ以上に、参加した学生たちにとって被災地で学んだことは大きかったと確信しています。私自身、〝役得〟による尊い宝物をいただいた体験になりました。東日本大震災から十年、そして熊本地震から五年を機に「記録・提言集」としてまとめられることになり、雑駁すぎる振り返りですが、六年間の全体像を把握していただければ幸いです。