「絆」を結びなおした被災地訪問
教主 黒住宗道
東日本大震災発生から十年の同日同時刻の三月十一日午後二時四十六分、神道山・日拝所において十一回目となった「RNN慰霊祭」を諸宗教で執行しました(詳細報告は次号)。大震災から四十九日であり五十日目であった平成二十三年(二〇一一)四月二十九日「昭和の日」に、仏教における「四十九日法要」、キリスト教と神道における「五十日祭」を日拝壇上から東に向かってつとめたのが始まりで、それ以降毎年同日同時刻に黙祷を捧げてから、RNN(人道援助宗教NGOネットワーク)の参加メンバーが順次つとめる形式が定着し、「十年までは続けよう…」が合言葉でしたが、当分しばらく期限を決めずに継続することになりました。
そして、その翌々日の三月十三日、私は(公財)世界宗教者平和会議日本委員会「災害対応タスクフォース」の責任者として、「追悼と鎮魂ならびに復興合同祈願式」を仙台市 (宮城県)の「荒浜記憶の鐘」の前でつとめるため、実に三百六十七日ぶりに神道山を留守にしました。恒例の新春参宮が延期になったため、結果的に神道山での御日拝を一年以上欠かさずつとめることができたのは、私にとっての「コロナ下なればこそ」の最たる“おかげ”になりました。なお、移動は広島-仙台便という空路だったので、“三密”の心配もありませんでした。
荒浜は、その名の如く“荒天”で氷雨と強風に見舞われましたが、「あの日の厳しさは、こんなものではなかった…」と、まさに身に沁みて感じ心に刻みながら締めくくりの挨拶をさせていただいた、記憶に残る祈願式になりました。
実は、「仙台まで行くなら何としても…」と思って計画していたのが、震災後何度も駆け付けた岩手県大槌町への六年ぶりの訪問でした。震災の年から五年間、岡山県内の大学生ボランティアを引率して毎年訪問していた頃は千二百キロメートルという距離をさほど感じませんでしたが、やはり「ちょっと訪ねる」には遠すぎて、最近は彼の地の人たちとはメール等で連絡するだけになっていたのです。
三月十四日午前九時に地元の金澤神楽講社の一行に迎えられて、大槌漁港から海に向かって黙?を捧げて禊祓詞を唱えた後、大槌稲荷神社を斎場にして慰霊祭をつとめました。随行の小野彰盛楽頭と本部布教課国重健太課長代務の奏でる吉備楽の音により一層厳かな祈りの時となりました。引き続き、この日のための特別奉納許可を得て演舞された金澤神楽に、私は魂を揺すぶられる思いがしました。目の前で見事に舞う少女たちの日ごろの熱心な稽古に思いを馳せ、地区ごとに伝わる我が郷土の神楽を愛してやまない大人たちの鉦と太鼓と横笛と囃子に心奪われ、この深く揺るぎない伝統という根っこが今も途上の大震災からの復興の原動力であることを否応なしに実感させられたからです。(なお、この時の動画が「東北文化財映像研究所」によってYouTubeで公開されています。「2021金澤神楽東日本大震災物故者供養」で検索できます)
慰霊祭と神楽奉納を終えた後、参列者の中に涙を浮かべながら私たちに近づいて来たご婦人がいらっしゃいました。「仮設住宅に避難していた頃、今日聞いた厳かな音色に心癒やされました。再び耳にできるとは思いませんでした…」とおっしゃるこの方は、かつて私と一緒に大槌町を訪れて慰問演奏した吉備楽を覚えて下さっていたのでした。また、自らが被災者として数カ月暮らした避難所での世話係を献身的につとめた男性と久しぶりに再会しました。震災から一年以上も経ってから“燃え尽き症候群”なる鬱体験の苦しみを吐露してくれた人でしたが、明るい笑顔で迎えて下さったことを何よりも嬉しく思いました。
その後、昼食に訪れた食事処では、扉を開くなり「まぁ、黒住さん! お久しぶり…」と、いきなり女将に名前を呼ばれて迎えられ、食事どころではなくなってしまいましたが、午後の訪問のため長居をするわけにはいかず後ろ髪を引かれる思いで店を後にして、予定していた神社と寺院を二カ所ずつお参りすることができました。かつて遥々神道山までお越しいただいてRNN主催の研修会の講師をつとめていただいた曹洞宗吉祥寺の高橋英悟住職(本誌平成二十六年一月号参照)、三回忌法要に吉備楽の楽人方と共に参拝奉仕した際にお世話になった浄土宗大念寺の大萱生修一住職(同二十四年五月号参照)、また大学生ボランティア一行と拝観した伝統舞踊である虎舞いに誘われるように参拝したことのある天照御祖神社の藤本俊明宮司、そして震災当年に「今年こそ祭りが必要!」と秋祭りを決行したことで知られる山田八幡宮の佐藤明徳宮司らとの再会でした。
一方、全国的に有名になった“さんてつ”こと「三陸鉄道」は、大槌駅を通る路線の復旧が最後であったため、この度初めて乗車することができました。そして、初めてといえば、今回二泊した「三陸花ホテルはまぎく」には、上皇様・上皇后様との感動的なエピソードがあり、こちらも念願かなって宿泊することができました。
かつて、平成九年(一九九七)に岩手県で開催された「全国豊かな海づくり大会」に御成りになった天皇・皇后両陛下のご宿泊先であった「浪板観光ホテル」が被災して、社長以下四名の幹部従業員が犠牲になり、亡くなった社長の弟で後を任された千代川茂現社長が再建の意志を固めたのは一枚の写真が切っ掛けだったそうです。 ご滞在中に散策なさった両陛下が浜辺にたくさん咲いていたハマギクを愛でられたので、後日お礼の手紙にハマギクの種を同封して贈ったとのこと。
震災後、廃業を考えていた千代川氏の目に留まった“その写真”は、皇后陛下の七十七歳のお誕生日にあわせて宮内庁が公開した数枚の中の一枚で、皇居・御所の石垣沿いに咲き誇るハマギクをご覧になる両陛下の御姿でした。ハマギクの花言葉は「逆境に立ち向かう」。千代川氏は、陛下からの励ましのメッセージと感じ取ったのでした。
エピソードは、これに留まりません。
天皇陛下(当時)が、平成二十四年(二〇一二)二月十八日に心臓の冠動脈バイパス手術を受けられた際、陛下のご回復を願って皇居を訪ねて記帳した千代川氏の元に、二カ月後に側近の侍従から電話がありました。「震災でホテルがどうなったか、陛下が心配されています」。氏は、ハマギクの写真に励まされて再建に取り組んでいることを夢中に伝えたのでした。陛下のご回復を願って記帳した人は九万八千人にも及んだようですが、陛下はすべてに目を通されたとのこと。「三陸花ホテルはまぎく」と改称して営業を再開したのは、翌二十五年(二〇一三)八月でした。
そして、二十八年(二〇一六)九月、天皇・皇后両陛下は、復興状況ご視察のため大槌町を訪れ「ホテルはまぎく」にお泊まりになりました。
「『がんばりましたね』とのお言葉に込められた大御心の温もりが忘れられない…」という生の声を社長本人から聞きたくて「ホテルはまぎく」に泊まって、大槌町観光交流協会会長でもある千代川茂社長からご挨拶をいただくことも叶いました。
実は、金澤神楽を自分の娘に教え伝えて、伝承責任者の家に嫁いだ者としての務めを果たしているのが鍼灸師の佐々木賀奈子さんで、私にとって東日本大震災を語る上で欠かせない存在です。「『永遠の“今”』を生きる」③(本誌令和二年六月号)では、Sさんと表記しましたが、本教とのご縁の深いAMDAの現地スタッフでもあります。彼女の協力なしに、「『絆』を結びなおした被災地訪問」と表題できるような今回の大槌町再訪はあり得ませんでした。
「風化させない」とか「忘れない」とか、たびたび目にし、耳にした「あれから十年」の三月でしたが、「忘れようにも忘れられない」時を現場で刻めたことを、まことに有り難く思っています。