タッカー教授とのオンライン・インタビュー
教主 黒住宗道

 かつて、教祖神御神詠の「有り難きまた面白き嬉しきと みきをそのうぞ誠なりけれ」を見事に英訳して下さった、長年にわたり教主様とご昵懇のメアリー・E・タッカー教授は、現在米国エール大学において「宗教と生態学」の世界的権威として活躍されています。この度、教主様には教授からの依頼で、「神道および黒住教の環境問題に対するメッセージ」と題して、インターネットによるオンライン・インタビューに英語で応じられました。なお、このインタビューは、エール大学の学術講座として公開配信されています。今月は、主要な三つの質問に対する教主様のご回答の原文(日本語)を掲載します。(編集部)

問)神道の伝統の如何なる側面が、環境を重んじることや生態学的な配慮に向けられているものといえるのでしょうか?

答)日本古来の伝統信仰である神道の概念にあっては、自然界のあらゆる存在と現象が、厳粛なる神々のはたらきで、人々にとって祈り、崇め、畏れ、歓喜、感謝の対象です。この概念は、二十一世紀の今も変わりなく、神々を祀る神社の多くは深い森の中に鎮座し、巨木や岩や山そのものが信仰の対象である場合も珍しくはありません。すなわち、如何なる側面というよりも、神道の世界観と自然環境は一体と言って差し支えないのです。

 にもかかわらず、この神道の世界観が現代日本人の環境保全に対する意識に活かされているとは、とても言えません。掛け替えのない自然の恵みを当然として軽んじたり、先人たちが大切にしてきた「もったいない」の精神を簡単に過去のものにしてしまったり、経済最優先志向に何ら罪悪感をもたなかったりしてしまう、現代人の身勝手な解釈が一番の課題です。理解できないかもしれませんが、神道は日本古来の信仰の「文化」であり「慣習」であり「伝統」であって、人の正しい生き方を教え導く「宗教」ではないため、伝統的な生活習慣が忘れられるのと同時に、大切な世界観も失われつつあるのではないかと危惧しています。

 正月に日の出を拝み、春には桜を愛で、夏には星に願いを込め、秋には月見と収穫を祝う秋祭り等、元々は自然の神々に向けた祈り(祭り)であった様々な行事の本来の意味が問い直されると、環境に対する意識も変わってくるかもしれません。

問)黒住教の教えが、どのように地球環境に対して優しいものと理解できるのか教えてください。そして、人は日拝を通して、どのように人類や自然への明確な決意と愛情深き親切な心を創り出せるのでしょうか?

答)先ほど「神道は日本古来の信仰の『文化』であり『慣習』であり『伝統』であって、人の正しい生き方を教え導く『宗教』ではない」と言いましたが、神道には信仰に基づく厳かな祈り(儀式・祭典)はありますが、教義や戒律を説いた教祖が存在しないので、神道を「宗教」とは定義づけできません。そこで、黒住教の存在価値になるわけです。数百年に亘って代々神道の神職であった私の先祖の中で、私から数えると七世代前の先祖である黒住宗忠が、今から二百七年前に自らの宗教的神秘体験により神道の世界観に基づいた教えを説き広めた黒住教は、教義・戒律のある神道、すなわち宗教としての神道の始まりとされ、「神道の教えの大元」と称えられてきたのです。

 その教えを手短に説明するのは困難ですが、古来神道の世界で崇拝されてきた神々の中でも「太陽神」として最も重んじられてきた天照大御神を、「太陽=神」と限定されるような「太陽の神」ではなく、一切万物の大元の顕現した存在と位置づけて称え、太陽、とりわけ昇る朝日を通して万物の親神である天照大御神に祈りを捧げるという信仰を確立しました。あえて表現するなら、キリスト教にとってのゴッドやイスラームのアラーと称されるような存在として、神道黒住教にとって天照大御神を崇めたのです。そして、古来神道で神々のはたらきと崇拝されてきた自然界の現象は、すべて天照大御神の恵み(神徳・神慮)であり、私たち人間は大御神の分心を我が心の神(心の中の心:真の心)としていただく“神の子”で、本性的に尊い存在であるという人間の真実体を明らかにしました。

 ただ、誰もが天照大御神の分心を我が心の神(心の中の心)としていただきながら、私たちの感情はまるで太陽を覆い隠す雲や霧がすぐに立ち込めて雨や嵐を引き起こすように、本来の光を遮ったり損なったりしがちです。私たちは、毎朝日の出を拝んで、豊かな自然の恵みを実感し、すべてを生み出す天照大御神への感謝の祈りを捧げます。そして、自らの心中においては不平や怒りや悲嘆や諦め、また強欲やその他もろもろの陰湿な感情を祓い清めて、本来の陽気で前向きな太陽の気を充填して心をなおして一日を始めます。私たちにあっては、信仰生活そのものが、自然と融和というか一体感を感じることなのです。

 このように、太陽に象徴される天照大御神の分心を真の心(誠)として誰もが有しているという人間観ですから、私たちにとって「祈り」は心の祓い清めであり、とりわけ感謝と陽気を心掛けて生活することが信仰の基本です。実は、かつてタッカー先生が英訳してくださった宗忠の詠んだ教えの和歌があります。
「有り難きまた面白き嬉しきと みきをそのうぞ誠なりけれ」
“A sence of gratitude along with feelings of wonder and joy, will if we maintain all three keys, brings us true sincerity.”

 この教えの和歌は黒住教信仰者の生き方を象徴しています。そして、人は日拝を通して、どのように人類や自然への明確な決意と愛情深き親切な心を創り出せるのかという質問の答えになると思います。

問)あなたが積極的に取り組んで来られた様々な人道的な活動は、環境問題にも関係していますか。

答)「もったいない」という日本語は、3R(reduce, reuse, recycle)を一言で表現した環境保全のキーワードのように知られるようになりましたが、この言葉は元々感謝を意味します。すなわち、「おかげさま」の心を基本にすると、地球環境にも必ず優しい暮らしになるはずなのです。そして、感謝を意味する最も有名な日本語は「有り難う」ですが、その言葉自体の意味は「滅多にない、希少な」です。人は、無制限にあると思うと無駄な使い方をしますが、希少だと思うと大切にします。「有り難う」の反対言葉は「当たり前」です。私たちは、「すべてに感謝して生きよう!」と呼び掛け、その精神を基本にして様々な人道的な活動にも取り組んでいます。例えば、ブームだけにしてはいけませんが、経済界も積極的に参加しているSDGsも素晴らしいことと賛同しています。また、今は新型コロナウイルス感染症の終息を願って諸宗教の方々と心ひとつに祈っています。宗教・宗派・教団を超えた祈りをともに捧げることができるのも、全てを生かし育む太陽の恵みを天照大御神のはたらきとして祈っているからでしょう。私たちの社会的な取り組みの根底にある精神は「おかげさま」。すなわち、「もったいない」と同じ心です。

 最後に、西暦二〇〇〇年の夏に行われた「ミレニアム国連宗教サミット」で、タッカー先生が座長をされた環境をテーマにした分科会で私が発表させていただいた講演原稿がありますので、ご希望の方はメールで入手していただけるかと思います。二十一年前に神道の視点から発言した問題点は、残念ながら今も変わることなくそのまま二十一世紀が直面する喫緊の課題として読んでいただけると思います。

 向学熱心な皆様の、お役に立てられたら、とても幸せです。有り難うございました。