コロナ下なればこそ
(元旦放送のRSK山陽放送ラジオ番組「新春を寿ぐ」より)
教主 黒住宗道

新年あけましておめでとうございます。
この一年の皆様のご多祥・ご健勝を心よりお祈り申し上げます。
併せて、ここのところ一段と勢いを増す一方の新型コロナウイルスによる禍中お見舞い申し上げます。どうぞ、無事安全に心身ともに元気にお過ごしになられますように…。

 それにしても大変な日々が続きます。

 私たち黒住教では、昨年三月一日に「開運祭併せて新型コロナウイルス肺炎終息祈願祭」を斎行(おつとめ)して以来、毎朝日の出に祈りを捧げる日拝祝詞の最後に「辞別きて白さく 此度国の内外を分かたず此処彼処に広がりし新型コロナウイルス感染症の一日も早き終息を祈り奉る状を聞し召せと畏み畏み白す」と奏上する祈りを始めとして、事ある毎に「コロナ禍終息」を祈念し続けながら、安全と予防の実践を呼び掛け、日々努めてきました。

 何せ、「集まって心をひとつにして祈り、喜びも悲しみも共に分かち合う」のが宗教活動の基本ですから、「離れて、遠ざけて」というディスタンスと折り合いをつけるのは、とても大変です。ただ、昔から「遥拝(遥かに拝む)」とか「心参(心で参る)」といった言葉が存在するように、「たとえ身体的には離れていても、心ひとつになって祈る」ことは古来信仰の世界では重んじられていて、ニューノーマルに欠かせない文明の利器となったリモートとは、結構相性の良い部分があるのも事実です。岡山の春を彩る「宗忠神社・御神幸」や秋の「献茶祭」、また本来“お祭り”には欠かせない懇親・親睦の場である「直会(まさに、『直に会う』と書きます)」など、中止せざるを得ない行事・計画は幾つもありましたが、あくまでも、実際の参拝を補完する便利な道具として“リモート参り”の案内も推奨しながら、祈りという基本軸はぶれないように、この禍中こそ信仰心という信じる力を強くもって、無事安全と一日も早い終息(収束)を祈り続けて来ました。

 同時に、黒住教は明治時代に「用心法」と称されていた事実からも伺えるように、「心の用い方・使い方」を説いた「心なおしの道」です。「用心」とは「心を用いる」と書くように、本来は有り難いことにも嬉しいことにも楽しいことにも「用心」できるはずですが、悪いことが起きないように、失敗しないように注意して心を用いることだけに特化しています。同じような言葉が「心配」です。ご存じのように「心配り」と書きますが、陽気に楽しく前向きに感謝して「心配する」とは言いません。

 実は、黒住教教祖黒住宗忠神は、「心配はせよ、されど心痛はすな」と教え戒めていま す。危機管理のためにマイナス要因を回避するのは普段の生活においても大切ですし、いわんや昨今のような“禍中”においては最も必要とされる行為です。しかしながら、いわゆるマイナス思考に陥って「心配」が「心痛」になってしまうと、マイナス要素を招き入れるような事態になりかねません。私は、宗忠神の教えに倣って「用心はせよ、されど疑心暗鬼になるな」と説いています。猜疑心は明らかに暗闇の中の鬼を呼び起こします。流行に迎合して申し上げるならば、鬼を滅ぼす「鬼滅」とは真逆な結果をもたらすのが、迷いと疑いの心です。

 毎朝日の出を拝んで、陰から陽へ、元気を喚起する生活を何よりも重んじている私たちは、ステイホームの自粛前から「今こそ、ありがとうなろう!」と、意識的に感謝して敢えてポジティブに生きる大切を呼び掛けてきました。この基本姿勢は、これから先も変わりませんが、何事も頑張りすぎでは長続きしませんし、ストレスの因です。できることなら、現状を楽しむくらいの余裕をもって自然体でいたいものです。それが、私からの今年の新春のメッセージ「コロナ下なればこそ」です。

 増加の一途を辿る感染者、とりわけ重症患者の苦痛や、極限状態が延々と続く医療従事者のご苦労、そして経済的困窮を極める無数の人々の心中を思うと、決して能天気に楽観論を展開すべきではありません。しかし、「コロナのせいで」変化を強いられた新たな日常の中に、「コロナのおかげで」と思える喜びや楽しみや発見は必ずあります。どんなに苦しい状況下にある人にも、例外なく、しかも数え上げたらキリがないほどに…。先の見えない不安や前例のない大変さに心が独占されて、気付かないだけです。「同じ現実も受け方次第」と言われます。無理やり前向き思考に改めなくてもよいですが、せめて、見落としがちな“すぐ近くにある宝物”を大切にしませんか? それが「コロナ下なればこそ」です。

 実は、このタイトルも、宗忠神の教えをそのまま活用しています。今から二百年も昔の江戸時代に、「何事も、“こそ”を付けると有り難くなる」と教え、「ただし、“こそ”は一つ付けるがよろしかろう。二つ付けると“こそこそ”と道を外れる…」と、笑いの中に正しい心の用い方を説き示した宗忠神ならではの教えです。

 残念ながら、当分“ウイズコロナ”の日々が続くと言われます。ただ、私としては、一緒にいたくないコロナとの付き合いは、“ウイズ”よりも、戦争中の暮らしが“戦時下”と呼ばれたように“コロナ下”と呼ぶのが相応しいと思っています。そして“ウイズ”は、私にとっては“ウイズお天道様”であり“ウイズ宗忠様”といった具合に、不安な「コロナ下なればこそ」、安心の拠り所を身近に感じられる言葉として重宝したいと思います。今は、公共電波による「新春を寿ぐ」の番組中ですから、“ウイズお天道様”に限定して話を進めます。

 毎朝日の出を拝む「日拝」が私たちにとって最も大切な祈りの時ですが、実は、昨年まで毎週末のように泊まりがけで全国各地の教会所に出掛けていて、神道山で毎朝一日も欠かさず日拝を続けるのは「夢のまた夢」が現実でした。それが、三月初めの上京を最後に宿泊の出張がなくなり、まさに「コロナのおかげで」、私にとって初の日拝皆勤十カ月目を迎えています。今月は恒例の初参宮があるので前泊せざるを得ませんが、他ならぬ伊勢神宮に参るのですから、私の“ウイズお天道様”の気持ちは有り難さを増す一方です。加えて、風説を助長するものではありませんが、「新型コロナウイルスの抑制に日光が効果的」というネット情報には、どうしても期待をしてしまいます。たとえ顕著な効果が見られなくても、体内時計のリセットをはじめとして、日光が心身の健康に良いのは明らかなので、過度の紫外線照射の危険性のない朝の日の光をしっかり浴びて、「コロナ下はウイズお天道様!」の心で“日の御蔭”を受ける方が多からんことを願っています。

 最後に、「コロナ下なればこそ」で多くの人に共感していただけるのは、いつか読もうと思っていた本を読んだり、何か作品を作り上げたり、気になっていた片付けを行ったり、新たなことに挑戦したり等、まとまった時間を自分なりに活用できたことではないでしょうか。会議の持ち方とか働き方とか、“コロナ後”になっても以前には戻ることはないと思われる変化が、きっと各個人レベルでも起こっていることでしょう。とても大変な日々ですが、今を精いっぱい生きることで、いつか必ずや「コロナ下だったからこそ…」と振り返ることができるのだと確信しています。

 どうぞ、お元気で、お大事に!
あらためて、皆様のこの一年のご多祥・ご健勝を心からお祈り申し上げます。

※RSK山陽放送ラジオは、昭和二十八年(一九五三)に岡山市に開局し、以降毎年、元旦放送恒例の第一声として、五代宗和教主様の「新春を寿ぐ」とのご挨拶を放送してきました。同四十九年(一九七四)からは、六代様が同放送を受け継がれ、平成三十年(二〇一八)より現教主様に継承されました。