「祈れ、薬れ」 ②
教主 黒住宗道

 教主様には、今秋に開催予定であった日本統合医療学会岡山支部総会・学術講演会の講師を依頼され、「祈れ、薬れ」と題した講演原稿をまとめられました。残念ながら、新型コロナウイルス感染症の影響で中止が決定されましたが、禍中の今こそ、お話の内容を深く学ばせていただき、全ての方に通じる教祖宗忠神の御教えの有り難さを、“活かし合って取り次いで”まいりましょう。先月から三回に分けて要旨を掲載しています。(編集部)

 実は、宗忠の教えを語る上で、どうしても申し上げておきたい事があります。それは、黒住教の信仰には、「“そもそも罪・穢れ”や“そもそも罰・祟り”や“そもそも悪”や“そもそも地獄”は存在しない」ということです。先に列記した「天照らす神の御徳」に始まる御神詠に明らかなように、天照大御神の御徳(御陽気)は天地自然の間に限りなく凜と満ち渡っていて、そもそもの罪・穢れや罰・祟りや悪や地獄はあり得ないと信じる教えです。もう一度「道の理」の冒頭部分を紹介しますが、「凡そ天地の間に万物生生する其元は皆天照大御神なり」であり、本来、「其の御陽気天地に遍満り、一切万物光明温暖の中に生生養育せられて息む時なし」なのです。ただ、残念ながら、日の光が及ばない暗く陰気で閉ざされた所や祓い清められていない汚れた場所が痛みや腐敗の元凶になるように、今年ということで申せば、ウイルスやバクテリアが蔓延しやすくなるように、時間の経過や日々の営みの結果として出現する好ましからざる現象は現実的には当然あります。ありすぎるほどです。そのような負の要素を、「正」に対する「邪」のように、「善」に対する「悪」のように、また「天国」に対する「地獄」のように、はたまた「天使」に対する「悪魔」のように、そもそも対等に存在する対立関係として解釈する方が客観的で論理的なのかもしれませんし、そうした世界観を教義の根幹としている宗教も少なくはないのでしょうが、私たちは、そのようには理解しません。あくまでも「天地に遍満る御陽気が弱まることによって、結果的に生じるのが陰気」という相対性の相関関係です。「罪は積みつもる」という教えや、「人は陽気ゆるむと陰気強るなり。陰気勝つときは穢なり。けがれは気枯れにて、大陽の気を枯すなり。その所から種々色々の事出来するなり」と認められた宗忠直筆の手紙が現存しているので、この点において勝手な解釈の余地はないのです。

 元々が「光明温暖の中に生生養育せられて息む時なし」なればこそ、本来の状態に回復(本復)するための「祓い・清め」が、私たちの信仰上最も大切な要素(修行)になります。宗忠は、「祓いは神道の首教なり」、「神道は祓いの一言に在り」と説いて、「常の祓い」や「心の祓い」の徹底を繰り返して教えました。「祈る=お祓いを上げる(大祓詞を唱える)」は、今も私たちにとって神を拝む際の不動の基本姿勢です。

 そろそろ、「祈れ、薬れ」の話をしないといけません。先ほど紹介した「医療と宗教」に関係する宗忠の言葉の中の、「病あれば気を屈せず、心を動かさずして、身を安んじ、よしと思う医者にかかれば薬もたちまち験あるべしと疑わず、深く大御神様を祈念しつつ、その命はことごとく天に任せ、一切苦悩を離れて養生すれば、百病も治らぬという事なし」に明確に示されているように、「信仰によって自らの心身を安定させ、『よしと思う』すなわち信頼できる医者の診断を疑わずにポジティブに向き合い、しっかり祈って一切を任せて養生すれば、治らない病気はない」という、現代医学においても、恐らく生命力と免疫力を高める上でこれ以上ない患者の心構えを教えているのが宗忠の説く病気との向き合い方です。「罰」や「祟り」や「因縁」や「霊の障り」等を病や不幸の原因として論う類の教えは、宗忠の言葉にはありません。「祈れ、薬れ」という言葉そのものは、宗忠自身の表現ではありませんが、恐らく明治時代の先輩が、どんどん導入されて新たな主流になりつつある西洋医学をも受け入れながら、信仰と医療の両立を意味する言葉として用いたのだと思います。

 そこで、私たちが「祈り」について語る時、必ず引用する宗忠の言葉を紹介します。先ほどの「陽気と陰気」を説いた手紙とはまた別の直筆の書簡に認められた、「祈りなばかなわぬことはなきものと思えど祈る心なきとは まことの祈りには、かなわぬことは無きものと申すこと、心に覚え有りながら、祈る心にならぬこと、はなはだかなしく候。祈りは日乗りにござ候由、本体の祈りにて、かなわぬことは無きことなり」という御神詠と御文です。「『まことの祈り』・『本体の祈り』とは『日乗り』、すなわちお日様と一体になって天照大御神に全てを委ね任せ切る大切」を明言した、かなり厳しい教えです。“弱気な祈り”や“中途半端・形式的な祈り”また“祈ったつもり”では天に通じるはずもなく、“おかげの受け皿”としての心の在りようが何よりも求められます。「神を拝むには、時刻に拘らず、朝日に向う心にて拝むべし」、「神は鏡の如し。我が心の誠をもって拝まずんば向う所に正神は御座あるまじ」とも、宗忠は教えました。臆病、疑い、迷い、諦め、また心痛などの雲・霧や罪・穢れを祓って清めて信じ切って、いかに“日乗りなる祈り”に徹することができるか、「言うは易く、行うは難し」ですが、病の身という命懸けの状態なのですからできないはずはありません。「苦しい時だけ」になりがちなことは大きな反省点として、本当に苦しい最中に「苦しい時の神頼み」を非難できる人など、誰もいません。それどころか、苦しい時の祈りこそ真剣そのものという意味で尊く思います。「日乗りなる祈り」こそ、私たちが“祈りの誠”と重んじる一所懸命の本気の祈りなのです。

 ただ、「信じて祈る力」を説かない宗教は世の中にありませんが、安心して信じ切れる宗教ばかりではないという、残念かつ深刻な現実問題があります。冒頭に申し上げたように、私は宗教学者でもなければ宗教評論家でもないので、宗教の正邪についてここで語りませんが、私は黒住教教主という一人の宗教者として、「黒住教は、全ての人に『知って良かった…』と必ず喜んでいただける宗教である」と確信して、正しく情報を発信することへの責任感と使命感を胸に日々つとめています。本日も、その信念と覚悟でこの場に上がらせていただいています。

 私が黒住教教主を拝命して丸三年が経ちました。肩書としては、慣れ親しんだ「副教主」の「副」を外しただけですが、教主名代としての副教主の頃とはまるで違う責任の重さというか“祈りの最終請負人”としての覚悟を日々実感しています。重圧といえばそれ以外の何物でもありませんが、喜びも楽しみも、苦しみも悲しみも一切を我が事として感じられる、“主体性”と呼べるような何かを先代教主である父から受け継いだと思っています。

 それだけに、御祈念(祈り)をつとめる方への思いが一層募るようになりました。とりわけ、私たちにとって最も大切な祈りの時である毎朝の日の出を迎え拝む「日拝」に際しては、自宅を出て日拝どころに向かう道中から、言霊の幸ふ国ならではの祈りの文言である大祓詞を心中で只管唱えながら、お一人お一人の名前とともに顔や声を思い起こしつつ、しっかり「おかげ」を受けていただくように「一切神徳 神徳昭々」と真剣に祈り念じ続けます。先ほど、宗忠の「祓いは神道の首教なり」と「神道は祓いの一言に在り」を紹介して、私たちにとっての「祈り」=「祓い」を示しましたが、罪や穢れや厄を徹底的に祓うことで、一人ひとりの本体である生命力・命の輝き、すなわち「ご分心」のはたらきが顕現してきます。雲や霧が祓われると、太陽が姿を現すのと同じです。さらに、手術や検査が執行される当日は、本殿である大教殿の御神前に据え置いて日々の祈りが込められている禁厭(ご祈念札)を開いて祝詞を奏上して、「手術安全・術後良好」、「検査良好」、「本復成就」を祈り念じ、「神光無限」、「誠通神(誠は神に通ず)」と心中で繰り返します。

 「医学の目覚ましい進歩・発展によって、かつての“病治し”の祈りは不要になった…」と考える人も少なくはないでしょうが、専門化や細分化が進むほど薬の処方や治療の手段の選択肢や組み合わせが複雑になり、「最良の結果を導くための最善の判断・診断を下すには、科学的なデータだけでは不十分」といった医師の発言を、ネット上でも度々見聞きします。また判断・診断のみならず、施術自体が“神業”とも言われる微細で超絶な技術と精神力、また体力を要する場合が多く、執刀医の先生が心身ともにベストコンディションで臨んでいただけるように、まさに「神に祈る」ほかないのが患者と家族の偽らざる心境です。そして、よほど強い精神力の持ち主でない限り、救いを信じて任せ切れる信仰心のある人の方が、不安や動揺を拭い去って大安心の平常心で施術や治療を受けることができ、その結果として免疫力や回復力が顕著になることは、今や科学的にも明らかな時代です。

 さらに、「インフォームドコンセント(十分な情報を提供した上での合意)」や「アカウンタビリティ(説明責任)」、また「コンプライアンス(法令順守)」といった社会が求めるルールによって、「知らなくてもよい情報」とは申しませんが、患者本人や家族が不安を募らせざるを得ない事前の情報告知の了解が義務付けられる時代です。「安心して任せておけば大丈夫!」などと無責任なことは言えない状況下で、ご祈念をつとめる私たちも責任は重大です。お参りになった方には事前に尋ねて現状を伺い、申込書で通知を受けた場合は備考欄に記された情報をしっかり把握して(もちろん究極の個人情報ですから、守秘義務は当然のことです)、その上で、私たちが信仰する天照大御神・教祖宗忠神に一切をお任せして一心不乱に大祓詞を唱え、「大丈夫!」との確信のもとに御祈念祝詞を奏上し、最後に「ご神徳のお取り次ぎ(祈り込み)」を行って、以降、毎朝の「日拝」から祈り続けるのが私たち“取り次ぐ側”のつとめです。もちろん、患者ご自身やご家族という“取り次ぎを受ける側”こそ、天照大御神・教祖宗忠神への純粋直向きな信仰心(祈る心)をどれだけ強くもてるかが同じように求められるわけで、結局は先ほど述べました「日乗りなる祈り」という“祈りの誠”が、“取り次ぐ側”にも“取り次ぎを受ける側”にも最も重要であることは言を俟ちません。

 実は、教主に就任して丸一年が経過した秋の祝祭の祭典中に、参拝者への挨拶を行おうとした時に思わず発したのが、「教主は、病み悩み苦しむ人の為に在る」の一言でした。自然と口をついて出た言葉に私自身が一番驚き感激しましたが、今も揺るぎない私のアイデンティティーというか、何よりも大切な信念になりました。
(以下次号)