今こそ、ありがとうなろう!
教主 黒住宗道

 当初の予定ですと、東京オリンピック開幕の七月を迎えましたが、まだまだ予断を許さない“コロナ禍中”です。「うつらない、うつさない」の“心配”を怠らず、ほどほど加減の安全基準を個人の責任に委ねられる昨今、そしていつまで続くか分からない“ウイズ コロナ”の日々を、どうか元気に“心丈夫”に過ごされますよう、あらためて衷心よりお見舞い申し上げます。

 この三カ月間、本稿では三月に開催予定であった「実りある人生のためのエンディング講座」のために準備した「『永遠の“今”』を生きる」と題した講演要旨を掲載させていただきました。禍の終息・収束を願う私の思いを綴る「道ごころ」を執筆するのは今回が初めてですが、「教祖大祭」での説教や「宗忠神社御神幸」欽行日であった四月五日のお祓い献読、また本誌先月号とともにお届けした「お道づれの皆様へ」と題して認めた禍中見舞状等を通じて、皆様には、ここ神道山から祈り続けていた私の心中を受け止めて下さっていると確信しています。

 私が、あえて三カ月の連続掲載予定を変更しなかったのは、心鎮めて自らの信心を深めていただける“自粛期間”に、皆様と心一つになって励行している「新型コロナウイルス感染症終息祈願」のお祓い献読とともに、「エンディング(終末)論」という重要で深刻な主題で教祖神の御教えの普遍性を説くことができたこのタイミングこそ尊いご神慮に他ならないと思ったからです。本文中にも紹介しましたように、あの原稿は、正にお導きいただいていることを実感しながらの執筆になりました。おかげさまで「次号が楽しみ…」という数々の嬉しい声を有り難く聞きながら、実は次の執筆に取り掛かっていました。(この件に関しては、最後に述べます)

 一カ月以上に及んだ緊急事態宣言が段階的に解除され、本来の日常生活が取り戻されつつありますが、冒頭にお見舞い申し上げましたように、“自粛中”とは異なる様々な“心配”を要する気遣いと気疲れの日々が続きます。熱中症にならないように注意しながらのマスク装着は必須で、「緩んでいないか」、「慣れ合いになってはいないか」と常に気を揉みながら、ほんの数カ月前までの当たり前の日常行動が気になります。自分自身の行動を省みれば省みるほど人の行動が気になり、「私はここまで気を使っているのに…」と苛立つことも増えがちでしょう。蒸し暑い季節の後に、必ず襲来すると予告されている次の大禍も心労・心痛の種です。BC(ビフォー コロナ)とか“染前”等と言われる普通に暮らしていた頃でも不平や不満が出やすいお互いです。よほど心の舵を油断なく操作しないと、“心配”が“心痛”に、そして“用心”が“疑心”になって“暗鬼”の淵に陥って仕舞いかねません。久々の“書き下ろし”の本稿を「今こそ、ありがとうなろう!」と題したのは、当分続くであろう“ウイズ コロナ”の今の時期こそ、お道の心、すなわち「道ごころ」を存分に養い発揮できるチャンスだと心得ていただきたいからです。

 「ありがとう」反対ことばは「あたりまえ」 心なおしてありがとうなる
 この素人短歌を本誌の「神道山からの風便り」(平成十九年三月号)で初めて発表させていただき、以来「あたりまえ」の有り難さに気づくことこそが「ありがとうなる」ことであり、「心なおしの道」である本教の教えの実践だということを、「道端感謝」や「道の緒」をはじめとした“入門書”を通じて折に触れて説いてきました。「戦後」とか「先の大戦」という言葉が忘れられ、全国的に平和と飽和が当たり前になっていたここ三十年ほどを考えるだけでも、今、この時期ほど“当たり前の有り難さ”を当たり前に実感できる時はありません。友達と会って話せる有り難さ、買い物のできる有り難さ、ちょっと立ち寄って一杯飲める有り難さ等々…。まだまだ不自由や制限はあっても、“自粛中”に比べたら何と有り難いことでしょう! “説教臭く”諭されると疎ましく感じる若い世代も、「有り難いこと…」という素直な気持ちが吐露された言葉は、今でしたら自然と心に沁みるはずです。同時に、「有り難いこと…」と思えている限り、先に示したような「気疲れ」や「気使い」、「心労・心痛」、「不平や不満」そして「疑心暗鬼」が幅を利かせてくることはありません。「活かし上手になっている」から「ありがとうなる」のか、また「ありがとうなっている」から「活かし上手になる」のかという理屈はさて置き、陽気で前向きな「心配(心配り)」や「気遣い(思い遣り)」や「用心(心の用いよう)」の心持ちに、誰でも自然となれるものです。あらためて、声を大にして皆様に申し上げたいと思います。
「今こそ、ありがとうなろう!」

 実は、来月から再び三カ月間、本稿にて講演要旨を連続掲載させていただきます。緊急事態宣言発令中、私は「不自由ながらも掛け替えのない特別な期間」と受け止め、祈り(祓い)に徹するとともに、六代様の教主時代も含めて平成二十四年(“祭り年”の初年)以降の「教主御祈念」の申し込み者の全名簿を、心中でお祓いを上げながら丹念に拝読して、今もご存命ながら長の病や痛みや悩みの中にある方々を“祈帳面”と名付けた帳面に書き写して、極力毎日繰り返してページをめくることを心掛けました。“自粛期間中”も当然新たな申し込みはありましたから、その都度追記しながら六月時点で八百名以上になりました。さすがに全てのお名前を憶え切れるものではありませんが、手書きならではのイメージが脳裏に焼き付いて、第一-一教区から第二十教区、そして無所属の方々に至る各ページが、お祓いを上げ始めると無意識の内に自然とパラパラとめくられ、「病み悩み苦しむ方と共にある」という思いが一層強く感じられるようになりました。このこと自体が実に有り難いことで、“自粛期間”のおかげの一つです。

 さらに、尊いご神慮と心得て準備を始めたのが、来月以降の本稿に掲載させていただく予定の原稿執筆でした。  結果的に期日未定の延期になっているのですが、本年十月に開催予定であった「日本統合医療学会岡山支部」の総会・学術講演会で、「医療と宗教」をテーマに講演を依頼されていたのです。「近代西洋医学に基づいた従来の医療の枠を超えて、“人”の生老病死に関わり、種々の相補(補完)・代替医療を加味し、生きていくために不可欠な“衣・食・住”を基盤として、さらには自然環境や経済社会をも包含する医療システム」(ホームページより)という「日本統合医療学会」の、支部総会・学術講演会の講師を依頼されたのが昨年秋のことでした。「エンディング(終末)論」とともに、「宗教者として、真剣に向き合うべき重要な主題」と意を決して、「祈れ、薬れ」と題した講演の執筆に取り掛かったばかりの私にとって、今回の“自粛期間”は、集中してパソコンに向かうために与えられた掛け替えのない時間になりました。

 先月までの三カ月と来月からの三カ月という、合計半年間も月々の“書き下ろし”の便りを送れないことを申し訳なく思いますが、全人類が同時に「命」と真正面から向き合わざるを得ない前例のない時期に、「病も死をも超えて、生き通しに生きる」教祖神の御教えを心にいただいて、しっかりと生き切って下さいますよう願い祈るものです。

 末筆ながら、新型コロナウイルス感染症の一日も早い終息を祈念いたしますとともに、事態の収束に日夜献身して下さっている全ての方々に心からの感謝の誠を捧げます。 どうぞ、くれぐれもお大事に! お元気で!