「永遠の“今”」を生きる ③
教主 黒住宗道

 教主様には、母校である岡山県立岡山芳泉高等学校同窓会の支部で医師によって構成される「芳医会」主催による公開講座「実りある人生のためのエンディング講座」の講師を依頼され、「『永遠の“今”』を生きる」と題して講演をなさいます。新型コロナウイルス感染症の影響で、開催日が延期されたため講演前ですが、先々月から三回に分けて要旨を掲載しています。お道づれの皆様には、黒住教信仰の普遍性を深く学ばせていただき、全ての方に通じる教祖宗忠神の御教えの有り難さを、“活かし合って取り次いで”まいりましょう。(編集部)

 東日本大震災ということで申せば、私は毎年岩手県の大槌町を訪れると共に、先ほど触れたWCRP(世界宗教者平和会議)の震災復興支援担当責任者として定期的に岩手・宮城・福島の被災三県の方々と接してきました。愛する家族を失った人や、生存はしたものの今も深い苦しみの中にある人たちの心の呻きに、頷き、時に涙しながら聞かせてもらうしかできないけれど、「それが大事」と自らに言い聞かせたことです。

 昨年(平成三十一年三月)まで一年に一度は訪れた東北でしたが、遠く離れた被災地で厳しい現実の中にいる方々に、宗教者としてできることは何かを考えて、私は度々訪れた大槌町で、自らも濁流に巻き込まれて九死に一生を得た身ながら、鍼灸師として今も人々の疲れた身体のケアを通して心の凝りを癒やし続ける女性Sさんに「あなたの心をほぐすのが、私の役目」と言って、連絡を取り続けました。

 診療所ごと流されたSさんは、濁流の中で「助けて…」と手を伸ばして近くを流されていた老婦人を抱きかかえて二人同時に助かった奇跡的な生還者ですが、「救えなかった人たちが流されて行く顔が脳裏を離れず、眠ることができない」と何年も苦しみ続けました。直接彼女の施術を受けながら背中越しに話を聞いたり、岡山から電話を掛けて近況を確認したりするぐらいしかできませんでしたが、「あの時、黙って聞いてくれたことが、どんなに有り難かったか…」という言葉を宝物にさせてもらっています。

 今日の話の準備をしている最中、毎月友人たちと二十年以上続けている「読書会」と称する“懇親会”の次回の課題書として、先年お亡くなりになった渡辺和子先生の「目には見えないけれど大切なもの」が与えられました。「あなたの心に安らぎと強さを」と副題が付けられた数々の尊い言葉は、今ここで紹介したいものばかりですが、「共感」という項目を少し引用させていただきます。

 「人間関係を和やかにするのに、『の』の字の哲学というのがあります。例えば、夫が会社から戻ってきて、『ああ今日は疲れた』といった時に、知らん顔して、その言葉を聞き流したり、『私だって、一日結構忙しかったのよ』と自己主張したのでは、二人の間はうまくゆきません。その時に、『ああそう、疲れたの』と、相手の気持ちをそのまま受け入れてあげることが大切なのです」

 何てこともない、じつに平易な言葉ですが、渡辺先生の声が聞こえてくるようです。

 また、「死を考えながら生きる」の項目では、「死は私たちの生きる時間を制限してしまう悲しいものですが、同時に、私たちの人生に意味を与えてくれるものでもあるのです。もしも死がなかったとしたら、私たちは、生きている間に、しておかなければならないことが、なくなってしまいます」とおっしゃり、「聖アウグスチヌスも、『神の千年は一日である。一日は今日である。今日は今である』といって“今”の永遠性にふれている。柳宗悦の『心偈』によると、“一期一会”ということは、『今ヨリナイ』という覚悟だという。『一大事とは、今日ただ今のことなり』といった古人もいる」と、このまま紹介し続けるだけで本日の話は成り立つと思われるほど、私が申し上げたいことばかりの言葉が綴られていました。

 先ほど紹介した「病院で念仏を…」のテレビドラマといい、渡辺先生の本といい、本日の話の準備を始めた途端にピッタリの情報が近寄って来ているような小さな幸運を感じているところに、私の息子が「知り合いが、わざわざ岡山まで訪ねてくれたので会ってほしい」というのでお目に掛かった方が、志村真介・季世恵夫妻でした。二月二日のことでした。

 「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」という、真っ暗闇の会場を全盲のアテンド(世話係)に導かれながら巡ることで、視覚に頼らない世界で心の繋がりを体験する「見えない展覧会」を主催する夫妻の取り組みを紹介するだけでも、本日のテーマに相応しい題材でしたが、何より驚いたのは、季世恵夫人の本業は末期患者のセラピストで、女優の樹木希林さんに癌が見つかってから一昨年九月に亡くなるまでの十四年間寄り添い続けた方だったのでした。

 彼女が名刺代わりに下さった「さよならの先」という文庫本の帯には、「みんな、うまーく死んでいく。心の置きどこを変え、こんなに浄化して…」という希林さんの自筆のメッセージが記されていました。「〈『永遠の“今”』を生きる〉と題した講演の準備を、今朝始めたばかり…」と驚き感激して話す私の言葉を一緒に喜んでくれて、「宗教者の方こそ、温かく寄り添ってあげてほしいです。できることなら、教主様の講演を聞きたい」と言って下さったので、本日の話の原稿を明日にでも送り届けようと思っています。後日、「いのちのバトン」と題したもう一冊の著書も入手して、満を持して今日に臨んだ次第です。

 「人は大きな苦しみを持つと、孤独な気分に陥ります。するといつのまにか人や自然とのつながりを忘れてしまったりするのです。(中略)そんな時にそのかたわらで、そっと耳を傾けたり、つながりを心に取り戻したり、悩みのためにうまく片づけられなくなった心の中を整理整頓するお手伝いをするのが私の仕事なのです。時が満ちると、患者さんは自らの現状を受け入れ、周りの状況も見えるようになります。そして問題解決に向けて歩き始める。そのような時です。何かが生まれるのは…」という理由で、志村季世恵さんは自らを「バースセラピスト」と称しています。

 そろそろ、話を締め括らなければならない時間になってきました。

 今朝も、今日の初日の出を拝んで来ました。「雨の日や雪の日は休むんでしょう?」と尋ねられる度に、「目に見えない神様を信じているぐらいですから、雲の向こうに昇るお日様には、欠かさず手を合わせていますよ」と答えるようにしていますが、昇る朝日を目の当たりにできなくても、一気ににぎやかになる鳥たちのさえずりや、ヒンヤリと冷たい出来立てホヤホヤの酸素たっぷりの新鮮な空気が、日の出の時を知らせてくれます。「今日の日が、今生まれた! さあ、今日も張り切って生きよう!」と、毎日のスタートが切れるのは、難行苦行の修行ではありません。歓喜・感激・感謝の“元気を喚起”する命の充電です。私たちは、先ほど紹介しました人間の本体たる「分心」の永続性を示した「生き通し」という教えを信じて、「生き通しとは現在只今なり」と宗忠が説いた「永遠の今」を有り難く生きる信仰の心で日拝をしますが、誰でも何時でも何処でも昇る朝日を迎えることはできます。心を落ち着かせて開放して、普段意識しない一息一息に集中しながら深く長い呼吸を繰り返すだけで、きっと何かが変わります。「エンディング」のためだけではなく、永遠に「実りある人生」を重ねていただきたいと念願します。

 最後に、私たちが毎朝の日拝の締め括りに唱和する宗忠の詠んだ和歌を紹介し、そして神道山で迎える日の出の写真を何枚かご覧いただいて、私の話を終わらせていただきます。なお、日拝は、どなたでもご参拝いただけます。日の出の十五分前までに、神道山上の日拝所にお運び下さい。ご清聴、まことに有り難うございました。

天照らす神の御徳は天つちに
 みちてかけなき恵みなるかな
日々に朝日に向かい心から
 限りなき身と思う嬉しさ(了)