「永遠の“今”」を生きる ①
教主 黒住宗道

 教主様には、母校である岡山県立岡山芳泉高等学校同窓会の支部で医師によって構成される「芳医会」主催による公開講座「実りある人生のためのエンディング講座」の講師を依頼され、「『永遠の“今”』を生きる」と題して講演をなさることになりました。講演前ですが(新型コロナウイルス肺炎の影響で、開催日が延期されたため)、今月号から三回に分けて要旨を掲載します。お道づれの皆様には、黒住教信仰の普遍性を深く学ばせていただき、全ての方に通じる教祖宗忠神の御教えの有り難さを、“活かし合って取り次いで”まいりましょう。(編集部)

 「タイシボウ(体脂肪)率が百㌫の人はいないが、シボウ(死亡)率はみんな百㌫」というジョークに吹き出したことがありますが、世の中の生きとし生けるものは例外なく最期の時を迎えます。本日、私の出身校である岡山県立岡山芳泉高等学校同窓会の支部で、メディカル・ドクターによって構成される「芳医会」主催による公開講座「実りある人生のためのエンディング講座」の講師を仰せつかりました五期生の黒住宗道です。四期生の川&#64017誠治川崎大学理事長とはお互いの祖父様の代からの三世代にわたる深いご縁をいただいていますが、私にとって幼い頃からとてつもなく大きな存在であられた川&#64017祐宣先生の記念ホールで、「『永遠の“今”』を生きる」と題して話させていただくことを大変光栄に有り難く思っています。

 本日、私が講師としての指名をいただいたのは黒住教教主という宗教者であるからですが、宗教学者ではないので宗教全般を俯瞰して総括するような、生命観や倫理観や霊魂観、また祈りや信仰の意味について解説することはできませんし、そのつもりもありません。あくまでも黒住教という教派神道(明治政府に認定された神道教団)の第七代教主として、信仰と教えの伝統に基づく人間観を示すことによって、信仰のあるなしに関わらず理解していただきたい人生観と、信仰あればこそ受け入れられる人生観を聞いていただき、皆様方ご自身の人生を生き切る上での一助になれば幸甚に存じます。

 そもそも黒住教は、私の七世代前の先祖である黒住宗忠を教祖とする宗教教団ですが、黒住家は遥か昔から代々神職の家系で、室町時代まで現在の岡山県庁付近に祀られていた三社明神の社家であったのが、戦国大名宇喜多直家の命令で三社明神が今村八幡宮(現在の今村宮)と合祀されたことで、御祭神のお供をして現在宗忠神社の鎮座する場所に移り住み、爾来今村宮の禰宜職(宮司を支える神官)を“家業”として家督の継承が行われていました。余談ですが、本日の会場である川崎医科大学総合医療センターの所在する岡山市北区中山下を含む岡山市中心部の方々が現在も今村宮の氏子であるのは、かつてこの地域が三社明神の氏子であったという歴史的事実に基づいています。「昔は、皆うちの氏子だった…」とは、たとえ内心思っていても申しませんが…。

 歴史講座ではないので話題を戻しますが、黒住教の教えというか信仰が、日本古来の神道の伝統、すなわち日本人の伝統的な信仰観と流れを一つにするものであることを、まず知っておいていただきたかったので、歴史的背景を紹介した次第です。  黒住宗忠が今村宮禰宜として家督を継いで神仕えの日々を送る最中の、今から二百六年前の江戸時代後期の文化十一年(一八一四)に、宗忠が天命直授という宗教的神秘体験を得て立教したのが黒住教です。

 その教えの基本は、「凡そ天地の間に万物生生する其元は皆天照大御神なり。是万物の親神にて、其の御陽気天地に遍満り、一切万物光明温暖の中に生生養育せられて息む時なし」という神観と、「各体中に暖気の有るは、日神より受けて具えたる心なり。心はこごると云う義にて、日神の御陽気が凝結りて心と成るなり」という人間観に集約されます。

 古来、太陽神と皇祖神に限定されていた天照大御神を、森羅万象一切の親神として普遍化して、太陽、とりわけ東天に昇る朝日は大御神の顕現した姿であり、皇祖に止まることなく全ての生命の大元であると明言した神観は、それまでの世界観を超越して包括した、雄大で単純明快な哲理です。天地を創造・主宰する神の存在を説く教えは世界中にありますが、その顕在(目に見える存在)として「日神」を信奉する黒住教の教えは、“お日様”・“お天道様”に手を合わせてきた「日の本つ国」である我が国の信仰伝統を真正面から受け継ぐもので、幕末の頃から「神道の教えの大元」と称えられてきた事実にも明らかです。

 そして、万物の親神である天照大御神の神徳(御陽気)が凝結した「分心」という心の神が本心・中心・核心として鎮まるのが人であるというのが、黒住教の人間観です。「人は天照大御神の分心をいただく神の子」、「人は日止まるの義、日と倶にあるの義」と宗忠は教えました。

 布教に来たのではありませんが、黒住教の人間観を説明せずに本日のテーマを語ることはできないので、しばらくお付き合いいただきました。要するに、「私たち人間は、地球上のあらゆる生き物と同様に命を与えられて生きているが、その根源は一切の親神である天照大御神」と信じて生きることが、黒住教信仰の基本なのです。

 ところで、「八百萬神」という言葉をご存じの方も多いと思います。「八百萬神信仰」は、世の中の全ての尊いはたらきを神と称えてきた、日本古来の神道ならではの大らかな信仰伝統です。八百万の神々を実際に指折り数えた人などいるはずもなく、「嘘八百」や「江戸八百八町」や「八百屋」に通じる、「数えきれないほど多い」すなわち「無数≒全て」という意味です。立派な人が神として神社に祀られてきたのも、亡くなった人が皆“仏”と称されてきたのも、「神=ゴッド」と考えると説明できない、森羅万象一切のはたらきに尊い“神性”を認めて崇め拝んできた、日本ならではの信仰の伝統だからです。

 こうした生命の神性(または霊性・仏性)を信じるところに、あらゆる宗教は存在します。霊魂とか阿頼耶識・根本識、また心理学用語としての無意識と称される“何か”が在るということ、それが肉体の死滅後にどのように存続するかは宗教の世界観によって異なりますが、「死によって一切が消滅するものではない」と信じられることは、自らの死を受け入れざるを得ない状況にある人に対して、心の安らぎを与える確かな力になるのは明らかです。「科学的に立証できなければ、信じられない」と信仰しない人は誰もが思うでしょうし、非科学的な死後の世界観や超常現象ばかりがクローズアップされがちな“怪しい”面は否めませんが、私は一人の宗教者として信仰者として、「生命の神性と永続性」を確信しています。ただし、「今まで死んだことがないから、死んだ後のことなど分からないし、分からなくて良い」と本気で思っています。

 これは、冗談でも何でもありません。皆様「パスカルの賭け」という言葉をご存じでしょうか?「パスカルの定理」や「人間は考える葦である」の言葉で名高い十七世紀の数学者であり哲学者・神学者であったフランスのブレーズ・パスカルが唱えたもので、「理性に よって神の実在を決定できないとしても、永遠の命が約束される神の実在に賭けて、たとえ負けても(すなわち、神は実在せず永遠の命などなかったとしても)何も失うものはないが、実在しないことに賭けて負けた時(すなわち、神は実在して永遠の命はあったことを知った時)の損失は大きい」という、「信じることの無限の期待値は、信じないことの期待値より常に大きい」ことを訴えた主張です。日本人哲学者である三木清は、処女作「パスカルにおける人間の研究」で「賭」について丹念に論考を重ね、有名な「人生論ノート」の中で、「もし私が(死後の世界が「ない」と「ある」の)いづれかに賭けねばならぬとすれば、私は後者(「ある」)に賭けるほかないであらう」と記しています。

 どのような世界が「ある」のかは別問題として(そこに、人々の関心は奪われがちなのですが…)、“永遠の命”とか“死後の世界”とかが「ある」と信じて、「今を如何に生きるか」が重要であると確信すればこそ、「死んだ後のことなど分からないし、分からなくて良い」と申し上げた訳です。(以下次号)