「わたがし作戦 夏」
 —西日本豪雨災害に際して、
    お悔やみとお見舞い、そしてご報告—
教主 黒住宗道

平成30年9月号掲載

 先の「西日本豪雨(平成30年7月豪雨)」により、昇天された方々の御霊(みたま)に哀悼とご平安の祈りの誠を捧(ささ)げるとともに、今も辛苦の日々を余儀なくされている被災者の方々に衷心よりお見舞いを申し上げ、一日も早い復興・復活を祈念いたします。

 この度の災害は、多数のお道づれにも大きな被害をもたらしました。京都府の綾部教会所所属のお道づれご夫妻は、痛ましい限りですが自宅裏山の崩落の犠牲になられました。そして、愛媛県の立間中教会所をはじめ岡山県内各地の教会所所属のお道づれのお宅が多く浸水し、家屋損壊や田畑の土砂流入被害に遭った方が続出しました。また、神道山麓の岡山市北区尾上や花尻地域のように、一般報道されることのなかった冠水被害も各所にあり、本誌先月号で紹介されましたように、神道山は一時160名を超す地元の人々の緊急の避難所になりました。

 災害後は異常気象が恒常化している例年に増しての酷暑が続き、避難生活と復旧作業は想像を絶する厳しい毎日であったと拝察します。毎朝の御日拝で、被災された方々のことを祈らない日はありません。

 教団としては、まずはお道づれの被災状況の確認と復興祈念、教会所単位での支援の調整と募金の呼び掛けを中心とした日々に追われましたが、二週間が経過した7月23日に災害発生直後から緊急医療活動に携わっていた本教とご縁の深いAMDA(アムダ)の関係者からの要請を切っ掛けに、一カ月間にわたる「わたがし作戦 夏」と銘打っての支援活動を展開させていただきました。

 当初予定していた「道ごころ」の内容を変更して、今月は「わたがし作戦 夏」について報告いたします。

 23年前の阪神・淡路大震災に際して、本教は毎日五千食(2500名の被災者への夕食と翌日の朝食)の炊き出し奉仕を「わたがし作戦」と名付けて51日間にわたって行いました。黒住教は黒子役の“割りばし”に徹して、多くの一般市民・県民各位の善意・まごころが「甘くて温かい綿菓子のように大きく膨らんでほしい…」との願いを込めて教主様(当時)が命名して下さった、本教ならではの〈奉仕の誠〉の実践でした。毎年春の御神幸(ごしんこう)奉仕者・来賓参拝者への延べ3000余食の弁当作りという黒住教婦人会の長年の尊い経験があればこそ実施できた活動ですが、平成7年(1995)1月23日から3月14日という寒さの厳しい頃に、野菜たっぷりの熱い汁物を連日被災者に提供できたのは、本教にとって掛け替えのない災害支援活動の実績となっています。

 今回、最も被害が大きかった岡山県倉敷市真備町の避難所・岡田小学校で、AMDAのスタッフとして災害直後から救援活動に関わっていたRNN(人道援助宗教NGOネットワーク:私が事務局長)の仲間である真言宗の僧侶から、「避難している約700名の人たち、特にお年寄りの栄養不足が心配。何とか野菜を提供したいが、RNNとして対応してもらえないか…」との相談があり、協議の結果、黒住教が中心になってピクルス(新鮮野菜の酢漬け)を作って配給しようということになりました。23年前と違って真夏の炊き出しということで、野菜による食中毒の発生も少なくないことから、新鮮な野菜を小切りにして数分間熱湯に通してから、調味した酢に半時間ほど漬けて冷やして完成するピクルスなら、安全性とともに適度な塩分もあり、栄養豊富でさっぱりと美味(おい)しく食べていただける、夏場には最適の炊き出しメニューだと思い至ったのでした。避難所まで冷やしたまま搬入するための保冷車は、天台宗の僧侶であるRNN委員長が入手してくれることになりました。

 早速、教務総長以下本部当局と諮って実施することになった「わたがし作戦 夏」は、「PDP(ピクルス デリバリー プロジェクト)」と名付けられました。

 PDPの活動開始を前に、個人的にも親しい倉敷市長にプロジェクトの報告をした際に、「多くの報道によって支援が集中する岡田小学校だけでなく、同じ真備町内の公設避難所である二万(にま)小学校と薗(その)小学校へも配給してもらえれば有り難い…」という市長の胸の内を知り、迷うことなく活動対象を三校に広げました。

 RNNで協議した7月24日から一週間で具体化した計画は、直ちに教団内外に告知され、早速に岡山県北の上長田(かみながた)中教会所から蒜山(ひるぜん)高原の野菜がどっさり届けられたことに始まり、昨今の野菜高騰にもかかわらず各地から新鮮な夏野菜が続々と寄せられ、いよいよ8月4日に始まった毎週月曜日と水曜日と土曜日の活動日には、大元・宗忠神社の大食堂での調理と避難所での配給に、本部職員と黒住教婦人会(あさひ会)会員を中心に教団内外の奉仕者が連日駆けつけて下さいました。地元メディア機関による報道やインターネット・SNS等のデジタル通信網を通じての発信、さらには私が理事をつとめる(一社)岡山経済同友会や県内の大学連絡網である大学コンソーシアム岡山も関係各位への一斉配信を行って下さったことで、まさに「わたがし作戦」の名のごとく多くの人々の善意・まごころが大きく膨らみました。実は、当初は各避難所からの要望を聞いて配給先を決めていたのですが、いずれの避難所でもピクルスは大人気で「次は、いつ?」との声が相次ぎ、第二週目からは1100食分を準備して三カ所の避難所で同日に行うことを基本にして実施しました。

 私は、都合のつく限り、まず宗忠神社での調理奉仕者にお礼を申し上げてから避難所に向かい、ピクルスの手渡しを通して避難者一人ひとりに寄り添うことにつとめました。

 「いつも楽しみにしています。美味しいから…」、「元気が出る!」、「野菜がなかなか食べられんから、本当に有り難い…」、「これを待っとったんよ」等々、小さなカップ一杯のピクルスをこれほど喜んでいただけるとは私たちの想像以上で、ボランティアの皆さんも一層張り切って〈奉仕の誠〉を捧げて下さいました。

 校庭の配給テントで弁当や他の炊き出し食材とともに受け取ってもらう際の会話は限られますが、私は特製の“出前用ケース”に50個ほど詰めたピクルスを同行スタッフに持ってもらって体育館と教室を巡回して、一人ひとりに手渡しながら声を掛けるものですから、結構親しく話ができるのです。何度か出張サービスをするうちに、苦しい胸の内を吐露して下さる人も現れるようになりました。「もっと早く逃げておけばよかった…」、「なんもかんも失ってしまった…」、「泥棒よけに、しばらく路上で生活しとった」、「犬を繫(つな)いだままだったから…。かわいそうなことをした…」。ただただ黙って頷(うなず)いて聴かせてもらうだけですが、それが大事なことだと確信してつとめた一カ月でした。

 被災者との会話には、忘れられない思い出があります。23年前、数日ぶりに避難所である神戸市立兵庫中学校に戻った時、すでに顔見知りになっていた被災者の一人から「何日か顔を見んかったね…」と声を掛けられて、無意識に「ちょっと家に帰ってたもんで…」と返答した途端に「家があってえぇなぁ」と言われ、思わず言葉に詰まった私に、「ごめんごめん。困らせるつもりはなかったんだけど…」と、気遣いをされたのでした。明るく軽やかに面白く会話をするのは元々不得手ではない性分ですが、被災者と話をする際に必要不可欠な慎重な言葉選びの大切さを、身をもって教えられた経験です。

 今回、「美味しいわぁ」と言ってくれる人に、「試作した時、一晩漬けたら酸っぽうて酸っぽうて、こんなん持って行ったらえらいこっちゃと思うて加減してもろうたんよ…」と面白く話して一緒に笑いましたが、最初「こんなん持って行ったら辛(つら)いだけじゃと思うて」と言いかけたところを既(すんで)の所で「えらいこっちゃと…」と言い換えた自分自身の機転に、「よしよし、鈍っていないな…」と合格点を与えたことでした。

 また、23年前と大きく異なるのが、何はともあれ毎日朝昼晩に確実に届く食事と支援物資の多さ、そして避難所によって格差はあるものの連日各所で展開される炊き出しボランティアの充実ぶりです。神戸では、2500人という一避難所としての収容人数も尋常ではありませんでしたが、行政による食糧支給の対応の遅さが連日報道されていたにも関わらず、少なくとも兵庫中学校において炊き出しを行っていたのは私たちだけでした。阪神・淡路大震災が後に「ボランティア元年」と呼ばれたように、公(おおやけ)も民間も災害支援体制の確立には程遠い段階だったことが想像できます。今回、23年間の経験値が活(い)かされていることを実感しながら、食糧に関して申せば、避難所で必要とされている民間による炊き出し支援は「量(カロリー)より質(栄養)」であることを知り、どんなメニューともかち合わない「ピクルス」が結果的に最良の選択であったと喜んだことです。

 9月からは仮設住宅(既存の賃貸住宅を活用する「みなし仮設」を含む)への移動が奨励され、小学校を避難所とする“緊急時”が終了することから、私たちの「わたがし作戦 夏」も当初の予定通り夏休みの間だけの活動となりました。その間、PDPに加えて青年連盟長である息子の宗芳が中心になって、有志による「復興ボランティア」を酷暑の中、本当によくつとめてくれました。また、水道の復旧が遅れていた愛媛県宇和島市吉田町に住まう立間中教会所所属のお道づれの復興・復活に、まさに“道の仲間”として近隣教会所のお道づれと本部の若手職員が〈奉仕の誠〉を尽してくれています。

 最後に、天地のご安泰と国土の平安、被災地・被災者の復興・復活をあらためてお祈り申し上げます。