陶芸家に教えられて支えられての歳月

平成28年10月号掲載

 公益社団法人日本陶磁協会は、日本の陶磁文化の隆盛に貢献するべく、戦後に結成された権威ある組織で、日本陶磁協会賞及び同金賞を制定し、錚々たる作家方を顕彰してきています。受賞者の中には、本教ともご神縁深い故藤原建氏や故鈴木治氏、故藤原雄氏、隠﨑隆一氏らもいらっしゃいます。

 同協会は、月刊の機関誌「陶説」を発行していて、本誌昨年11月号本項には、隠﨑氏の金賞受賞に当たって教主様が同誌に寄せられた御文を紹介させていただきました。その「陶説」誌が今年の8月号において、「やきもの随筆」という特集記事を巻頭に掲載しましたが、7本の随筆の中、最初のものは教主様が依頼を受けてご寄稿になったものです。今号の「道ごころ」には、その御文を転載して紹介させていただきます。(編集部)

 物心つく小学生の頃から、わが家の食卓は食器の殆どが備前焼だったように思います。時に染付のような皿でもあれば、それがひときわ目立っていたのを思い出します。父先代の五代教主が、金重陶陽氏にじっ懇にしていただいていた故のことでした。長じて知ったことですが、「大本」の熱い信仰者であった陶陽先生は、教主といえば大本の教主様ゆえ、父のことを陶主と言って下さっていたようです。

 高校から大学生の頃、それは昭和30年から31年頃だったと記憶していますが、父に幾度か連れられて備前の陶陽先生の御宅に上がっていました。今も鮮明なのが、ある日先生が「今頃の備前焼はおかしい。土をビニールで包み、ドレンキで練り、電気ロクロでつくる……」とつぶやかれました。「何故?」と問う私を先生は土ぐらに案内して下さり、筵を持ち上げられると下には黒々とした土の塊が横たわっていました。この土に井戸水をかけて手や足を使って練っては寝かせ、寝かせては練って、口に入れて旨みが出てきたら使うと言われました。土が生きていることを教えられたときでした。先生の向かい側に座ったご夫人が廻すロクロの上の土が、ゆったりと動き、いきもののように立ち上がってゆく様は神秘的でした。

 何年もの後に分かったことですが、陶陽先生は作陶に際して、自らの心の熱伝導率ともいうべきものが低くなるようなことは一切されない方だと思うようになりました。

 昭和30年代そこそこの頃ではないかと思います、黒住教の信者で備前焼をやっている男だと言って、父の所へ陶陽先生は藤原啓氏を案内して来られました。啓氏は、文筆家になる夢に破れて傷心の内に郷里の今の備前市穂浪に帰っていたのを、陶陽先生に弟子入りして備前焼に救われた人でした。先年、啓先生作の薄手づくりの宝瓶とか茶?に出合い、ぼってりとしたいわゆる啓備前とはまるで違う作風に驚きました。それは細工物師として大をなした後、桃山期の備前焼を目指された陶陽先生に、一から叩き込まれた啓先生であることを物語っていて胸熱くなったことでした。

 この啓先生の甥の藤原建氏は、戦後間もない頃、啓先生の取り持ちで陶陽先生の許で修行し、後に“窯焚きの建”といわれるほどの名手になりました。陶陽先生がその晩年に 「もう5年もすれば建ちゃんは私を追い越す……」と言われたのも忘れられません。

 この建ちゃんこと藤原建先生は、黒住教の教団本部が教祖立教以来160年の大元から現在の神道山に遷座するに際し、私どもの大教殿という神殿の屋根の巨大な千木鰹木棟瓦を備前焼で制作して献納下さいました。

 このように、備前焼の世界にどっぷり浸かっていたような私の眼を啓いて下さったのが、走泥社の鈴木治氏でした。

 昭和40年、中・四国を対象とした重症心身障がい児のための施設を造ろうと、若い人たちとキャンペーンに精出していましたとき、鈴木先生は八木一夫先生と共に多くの陶芸家をご紹介下さいました。おかげでご支援をいただいて開催したいわゆるチャリティーセールは、盛況を極めました。岡山市にある総合社会福祉法人旭川荘の重症児施設旭川児童院は、こうした先生方のお力添えを今も忘れておりません。

 ある意味で、私の知る備前焼とは対極にあると言っても過言でない八木一夫、鈴木治両先生の作品には、正直言って衝撃を受けました。しかし、八木先生の口癖であった「いつも離陸の角度で」と、「創造の創は絆創膏の創で、自らを傷つけることですわ」は、心に刻まれました。また時が経つにつれて、鈴木先生の深く語りかけて来るような作品に魅了されてゆきました。先生は、“陶の詩人”ともいえる作陶人生を全うされたと思います。その作品たちは、先生がいかに己れに厳しい日々を重ねられていたかを物語っているように感じられます。

 傘寿を迎えた私が、今日、惹かれているのは中世のすり鉢や山茶碗です。その造りようは、まるで達人の寿司職人がシャリを掴むとその米粒の数はいつも同じといわれるのにも似て、陶工がさっと掴んだ土の量はきまっていて、ロクロの上での成形も、まるで機械のように同じものを手早く数多くつくり出していたのではないかと思われます。ただ機械とは異なる人間の為すことですから、そのさ中に、楽しい、嬉しい、更に無心な内に“ありがたい”と思わず口をついて出るような時に生まれたものに、“いのち”が吹き込まれて今日に生きて伝えられていると思うのです。

 陶陽先生も、その晩年、いずれ昔のすり鉢のようなものをつくりたいと仰っていました。形は違っても道はひとつ、との思いを強くしているこの頃です。

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 「陶説」に寄稿した一文の解説をさせていただきます。

 父五代様が私の若い頃に備前焼の重鎮である金重陶陽氏の所へ連れて行って下さっていたことは、長じて分かったことですが、本物の大切さを私に教えるためだったわけで、あらためて父の心の深さに感銘し有り難く思ったことでした。

 「本物」といえば、同じく若い頃に親しくして下さった方に、江原滋という津山市で病院を経営する方がありました。この方は、幼児教育の大事を思って幼稚園を創設して園舎も新しく建てましたが、程なくすべて造り替えられました。

 床はピータイルから板張りになり、デコラで出来た机は椅子ともども白木のものとなりました。壁は土壁、障子は普通の木の桟に紙が張られました。コップや皿もプラスチックから焼物に替わりました。いたずら書きをすれば消しても消えるものでなく、土壁を叩けばこわれるし、障子は破れるし、落とせば陶器のコップや皿は割れます。そこに躾があり、教育があるということでした。経済効率だけを考えた環境からは、真の心の教育はできないとの信念でした。

 また、走泥社といういわば型破りの陶芸家集団を率いた八木一夫氏の生きようは、壮絶なともいえる自己との闘いの日々でした。自らを追い込み追いつめ、そこから弾き出るような力でもって作陶に当たっているように思えました。まさに難有り有り難しの難を、自分自身に自らがつくり出して与え続けた一生とお見受けし、頭が下がりました。それは氏の盟友鈴木治氏にも言え、外柔内剛の人となりはその作品とともに実に魅力的でした。