誠ごころを養うことを中心に、神に人にあらゆるものに徹底して誠を尽くした教祖神の教えを一言で表現すると、それは“誠の教え”です。私たち黒住教は「よりよく生きるための“五つの誠”」という実践徳目を掲げて、今あらためて教祖の教えを“学び、つとめよう”と呼び掛けています。

黒住教副教主 黒住宗道

黒住教は教祖神の体験と悟りに学ぶべく、毎朝の日の出を拝む「日拝」を最も神聖な祈りのときとしています。天地自然に満ち渡る天照大御神のご神徳のなかで、“生かされて生きている”ことを実感するとともに、「神を拝むには、時刻に拘わらず、常に朝日に向かう心にて拝むべし」との教えに示された“朝日に向かう心”を体得することが日拝の目標です。そして、「祈りは日乗り」という教えのままに感動と感謝の心で日々「祈りの誠」を捧げ、とりわけ、病み、悩み、苦しむ人のために祈ることが、自他ともに救われる真の祈りであると私たちは信じています。

両親を敬い慕って、親孝行がその人生の中心をなしていた教祖神が悟った教えは、万物の親神である天照大御神への孝心でした。すべての命を生かそう、育もうとする天照大御神のはたらきは、「神心は親心」との教えに示されるように、わが子の健やかな成長を願う親の心そのものです。となると、子供である私たちの姿勢は自ずと決まってきます。すなわち、親心に添うことであり、恩返しにつとめることです。先祖と自分自身との関係も同様の間柄で、遥かなる先祖の霊魂から亡き祖父母の御魂への思いも、常に子が親を敬い慕う心、すなわち「孝養の誠」を捧げるものでなくてはなりません。「先祖のたたり」や「神仏のばち」などといわれる現象も、親のしつけ叱咤しったの表れの結果である場合が多く、前向きに受け止めることによって良き解決策が見出せると私たちは信じています。

あらゆる存在やはたらきに宿る神々を八百萬神と称え、その親神である天照大御神の広大無辺なるご神徳は誰にも分け隔てなく与えられるという世界観は、私たちにとって多様性の尊重と共生・共栄、そして相互扶助の精神の大原則です。人と人、国と国、また人とその他の生命との係わり合いの基本になるべき心情は、まさしく誠実さであり、純粋に相手を思いやる心です。特に、「道はいかすこと第一」との教えに示された“いかす(生かす・活かす)心”で、救いや支えを必要とする人や社会を励まし勇気づけ、本来の元気や活力が取り戻されるように「奉仕の誠」を尽くすことは、私たちの社会的な使命であるのです。

キリスト教徒が「アーメン」の意味を尋ねられたときの返答も、また仏教徒が「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」の意味を尋ねられたときの返答も、いずれも「ありがとう」だったという話があります。世界のどの宗教も共通して説く信仰の原点は、大いなるはたらきへの感謝です。神道はそもそも自然の恵みへの素直な感謝と畏敬の念から生まれた信仰であり、その源流を汲むといわれる黒住教では、「ありがとう」の動詞形の言葉として、一般的には使われていない「ありがとうなる」という表現を日常会話のなかに用いてきました。決して簡単なことではありませんが、たとえ困難や災難に遭遇しても、そのなかに感謝の種を見出す思いで気持ちを前向きに切り替えてゆく「ありがとうなる」修行を日々の心得として重んじています。

「誠意を示す」という表現が「自らの過ちを素直に認め謝る」の意味で用いられることがあるように、「誠」の大切な側面に「反省・謝罪」の念があります。懺悔(ざんげ)・贖罪(しょくざい)という宗教用語の存在から推測しても、「感謝の誠」とともに「反省の誠」はいずれの宗教にも共通する重要な徳目です。ただ、「人はそもそも罪深い存在」という“原罪論”の立場に立たない私たちには、「神と契約することで信仰が始まり、その契約を破ると厳しい咎めを受ける」という罰則がありません。誰にも分け与えられた天照大御神のご分心のはたらきは、欲望や臆病などの心のなかのわだかまりや汚れによって、その効力が妨げられ弱められがちです。神の許しを請うためというよりも、常に自分の心を自ら祓い清め、また祈りを通して祓い清めていただく“心なおし”のために、私たちには「反省の誠」が欠かせないのです。